阪神タイガース 歴代助っ人外国人②(1999年以前)


MLB名鑑.com NPB助っ人外国人一覧

Hanshin Tigers
阪神タイガース
セントラル・リーグ

外国人名鑑1999年以前
【1990年代までに在籍した外国人選手】
【1980年代までに在籍した外国人選手】
【1970年代までに在籍した外国人選手】
【1969年以前に在籍した外国人選手】
【大阪タイガース及び阪神軍(1936~60年)時代に在籍した外国人選手】
◇1990年代までに在籍した外国人選手
ベン・リベラ
投手 ドミニカ共和国/在籍:1998~99
期待以上
 MLB時代は先発投手だったが肩の故障でリリーバーに転向、阪神タイガースでクローザーを務めた豪速球投手。フィラデルフィア・フィリーズの先発ローテ投手になったリベラは、1993年に規定投球回以上を投げて13勝9敗を挙げ、チームのワールドチャンピオンに貢献。だがそれ以降は肩の故障で出場機会を減らし、97年にCPBL(台湾プロ野球)でクローザーをやっているところをタイガースが獲得した。

 制球力と変化球の質、クイックモーションといった技術面に課題を抱える、野村監督が嫌いそうなタイプだったが、当時メジャーでも希少な常時150km/h超の豪速球は大きな魅力だった。日本ではストライクさえ入ればそうそう打たれることはなく、2年目の夏頃までに合計39セーブ・防御率1.84と充分な結果を出していた。だが8月に右ヒジを故障し帰国。そのまま解雇された。

 阪神退団後は、ヒジが治ってから韓国のサムスンライオンズでKBOデビュー。日韓台の”アジア3大プロ野球”で試合出場を果たした初のプレイヤーとなった。ちなみに、左で投げても130km/h台を投げられたらしいが、公の場で披露したことがあるかは不明。

ダレル・メイ
投手 アメリカ合衆国/在籍:1998~99(巨人00~01)
問題児
 ファンの脳裏に問題児として焼き付いている先発左腕。

 短大から1992年にプロ入り後、46巡目の低順位ながらマイナーをスピード昇格して95年にメジャーデビュー。ここではメジャー定着はならず、98年のシーズン開幕直前タイガースと契約した。

 阪神1年目は4勝9敗・防御率3.47、まさに弱小球団で奮闘するエースらしい成績をマークした。2年目は防御率を落としたうえ、審判への暴行、報道陣への監督批判などで危険因子扱いをされ、ケンカ別れのような形で退団した。

 ちなみに、報道陣に野村監督を批判するビラを配った、という有名な逸話があるが、英語の分かる記者に自分の主張を書いたプリントを渡したところ、他の記者も欲しがったためコピーして配ったというのが真相のようだ。どれだけ投げても勝てないチームへの不満が相当たまっていたのだろう。

 退団直後に巨人へ移籍。2002年からはメジャーリーグに返り咲き、先発ローテーションで数年活躍。来日前より優秀な選手に成長する、ある種のモデルケースになった。

Embed from Getty Imagesカンザスシティ・ロイヤルズでは弱体投手陣を支えた
マーク・ジョンソン
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1999
 ブロワーズの後ろ、5番ファーストで1年間プレーした長距離ヒッター。阪神でのロースター上は外野手登録だった。

 MLBに1995~98年の間で294試合出場・38本塁打を記録。98年には長谷川滋利と同じアナハイム・エンゼルスでプレーするも打率0割台となり、日本行きを決めた。

 99年にブロワーズとともに来日。前半戦だけで19本塁打を放ち、中日との首位争いに大きく貢献した。しかし後半戦は別人のように打てなくなり、わずか1本塁打。最終的に打率.253・20本塁打・66打点と、これまでの阪神打線を思えば及第点と言える一方、後半戦の大不振はファンを大いに落胆させるものだった。ちなみに99年は中日ドラゴンズが山崎武司のサヨナラ3ランで優勝を決めた年だったが、この試合は山崎が打つ前の9回表、ジョンソンが宣銅烈から逆転ホームランを放ち、中日の優勝を阻止しかけた。そんな貴重な1打が後半戦唯一の本塁打であった。

 ところでジョンソンは来日前から8割をファーストで出場していた選手で、外野は出番をもらうためのサブポジに過ぎなかった。阪神で外野手登録になっていたのは、球団社長がよく確認せずに独断で契約してしまい、いざ春季キャンプで試してみるとファーストしか守れず、大豊泰昭とポジションが重複してしまった。このジョンソン獲得の経緯は、フロントと野村監督の対立を決定的なものにしたと言われている。

マイク・ブロワーズ
内野手 ドイツ/在籍:1999
 メジャーでも珍しいドイツ生まれの元内野手。軍人だった実父が西ドイツの基地に勤務していた時に生まれたためである。誕生後はアメリカに住んでいたが、7歳のときに両親が離婚。母親がドイツ駐留の別の軍人と再婚したため、再びドイツで暮らすことに。その後、育ての父が退役したタイミングでワシントン州に移住した。

 短大からワシントン大学へ編入したブロワーズは、所属ディビジョンで三冠王を獲得したのちプロ入り。地元球団のシアトル・マリナーズでサードのレギュラーを掴み、1995年にはマリナーズ初のポストシーズン進出に貢献。メジャー通算で742試合に出場・76本塁打を放っていた。

 来日前の1998年にはMLBで2桁本塁打(11本)にサイクルヒットを達成していたブロワーズ。バリバリのメジャーリーガーということで破格の2億2000万円で阪神タイガースに入団。ジョンソンより格上なので、年俸も高ければ打順も4番を任された。だが開幕から調子が上がらず、7月に一時的に4番らしい仕事をしたかと思えばまた打てなくなり、8月上旬に解雇された。

 阪神の助っ人事情では、1996年のクールボーとデービスを皮切りに97年はシークリスト、98年はパウエルとシーズン途中の解雇が続いていた。球団としても4年連続の途中解雇は避けたかったが、”本人の同意なしに2軍に落とせない”条項を盾に2軍落ちに反発するブロワーズを、解雇する以外に対処のしようがなかった。なお、ブロワーズもジョンソンの件と同様、球団社長が独断で契約したものだった。

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郭李建夫(かくり たてお)
投手 台湾/在籍:1993~98
 1992年のバルセロナ五輪で銀メダルを獲得した台湾のエース。来日前からNPBでのプレーを夢見ており、また阪神ファンでもあったことで翌年からタイガースに加入した。

 激しい争奪戦の末に獲得したタイガースであったが、外国人枠の矛盾を抱えていた。かねてから主力野手2人態勢のシーズンが多い阪神は、郭李入団1年目もパチョレックとオマリーが同時に在籍。「PKO問題」と呼ばれた難しいロースター編成となっていた。また、1年で手放すことになる松永をFA入団させながら先発の野田浩司を放出する不可解な動きもしており、タイガース球団の迷走ぶりが目立った。結局、パチレックは腰痛で欠場が多かったため、登板機会はある程度得られた郭李ではあったが常に不安定な起用法にさらされた。モチベーションが定まらず体重増加が悪影響を及ぼし次第に一軍で通用しなくなっていった。阪神退団後は台湾に帰国し、CPBL(台湾プロ野球)で主力投手として活躍した。

Embed from Getty Imagesバルセロナ・オリンピックではエースとして銀メダル獲得の原動力に
ダグ・クリーク
投手 アメリカ合衆国/在籍:1998
 マクドナルドがさっぱりだった翌年、引き続き左腕不足解消のため獲得した。開幕から1軍も4月に4連敗後に左肩痛を発症。ウエスタンで調整している間、5月にダレル・メイが1軍デビュー。先発ローテに定着してしまい、クリークが再昇格したのは10月だった。ウエスタンでは9勝1敗・防御率2.16の好成績でチームの優勝に貢献した。スライダーが良く、マクドナルドよりは球威もあったがコントロールが悪すぎた。

 翌年メジャーに返り咲くとデビルレイズなどで2005年までプレー。復帰後は通算203試合とステップアップに成功した。

デーブ・ハンセン
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1998
 若手の頃から代打を本業にしていた珍しいタイプの元メジャーリーガー。ドジャースでは野茂英雄とチームメイトであり、タイガース入団もラソーダ監督の推薦が決め手だった。

 1998年に来日。年俸以外に阪神が優勝すると出来高が付く珍契約を結んでいた。パウエルや大豊の元中日コンビとともによく中軸を打っていたが、121試合で11本塁打に終わった。

 退団後はメジャーに復帰し、2000年には7本の代打本塁打を放ち、MLB記録を更新している。

Embed from Getty Imagesドジャースで打撃コーチを務めた
デジー・ウィルソン
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1998
 第3の外国人扱いを承知のうえで来日した長身の黒人外野手。「デジ・ウィルソン」が正式登録名。身長2m超・体重も100kg以上の素晴らしい体格を持つ、パワーに乏しいハイアベレージヒッターだった。

 シーズン前のチーム方針どおりウィルソンの出場機会はファームが中心になり、一軍では16試合出場にとどまった。ただし吉田監督率いる一軍はカープと最下位争いを演じたが、ウィルソンが主軸を打った二軍はウエスタンリーグ制覇。ある意味チームに貢献したともいえる。

 帰国後はAAAで過ごしてから独立リーグで数年プレー。2000年にデジ・ウィルソンJr.が誕生したが、離婚して親権を取られてからは疎遠に。息子は名前をデジ・ジャスティス・カートンに改名し、NBAプレイヤーになった。

アロンゾ・パウエル
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1998(中日92~97)
 ドラゴンズで3年連続首位打者を獲得した巧打の外野手。ヒザのケガが原因でドラゴンズを解雇されていたところをタイガースが獲得した。

 だがヒザの具合は深刻で、走る系のトレーニングができない影響で体重管理が難しく、公式戦が始まっても体のキレが悪かった。一時は4番を打たせたこともあったが、もはや首位打者だった頃の姿はなかった。

 ⇒中日ドラゴンズ(1999年以前)参照

Embed from Getty ImagesMLB時代の青木宣親と談笑するパウエルコーチ(2017年)
ボブ・マクドナルド
投手 アメリカ合衆国/在籍:1997
 左腕不足を解決するため、1997年5月に入団テストを経て獲得したリリーフ左腕。だったが、球速は130km/h程度にとどまり、デビュー戦でもいきなりホームランを浴び、明らかに球威不足だった。ウエスタンでも打ち込まれ、9月に解雇。メジャー時代より酷い成績に終わった。

 MLB通算197試合登板・1995年にはヤンキースの一員… れっきとした元メジャーリーガーであるマクドナルドだが、阪神には別の人が来たのだと思った。ちなみに彼のファミリーネームは MacDonald なので、本家(?)とはスペルが違う。


フィル・ハイアット
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1997
 タイガース入団前年の1995年、トリプルAで本塁打と打点の二冠(+三振王)に加えリーグMVPに輝いていた。大型扇風機タイプで、この年ぶっちぎりの180三振を喫していた(2位でも127三振だった)。日本では打ってくれるだろうとタカを括って獲得したのかもしれないが、打率は2割ジャストを行ったり来たり…サードの守備も問題ありで、途中入団したコールズとシークリストが優先的に起用されるようになった。

 帰国後は再びトリプルAでホームランを量産し、2001年には5年ぶりにメジャー復帰。マイナー通算314本塁打、トリプルAだけで257本ものHRを放ったが、2007年の不正薬物に関する報告書”ミッチェル・リポート”にハイアットのステロイド使用が記載されていた。なお、一時期ホークスが獲得を検討していたらしいが、最終的にズレータを選んでいる。

マイク・グリーンウェル
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1997
大物 問題児
ここで語る必要もないほど有名な、日本プロ野球史上最大の事故物件。名門ボストン・レッドソックスに12年在籍、通算1269試合出場・打率.303・OPS.831、オールスター2度、1988年にはMVP投票2位の実績を持ち、レッドソックスの球団殿堂入りの輝かしい経歴を持っている。特異なのは三振しない能力。88年は87四球を選びながら38三振しかせず、7シーズンも四球>三振を記録(すべて規定打席をクリア)した高い打撃技術を持っていた。それなのに… タイガースでは7試合の出場にとどまり打率.231・本塁打ゼロの時点で神のお告げにより引退した。

 唯一優れていた点はやはり三振回避能力で、29打席に立って1度も三振もしなかった。ただそんなことではフォローしきれないほど期待を裏切った。歴代でコスパが最悪だった外国人には、この人と元横浜のコックスが挙げられる。確かにコックスの成績も酷かったが、高年俸を貰っていながら副業が理由で一時帰国している点でグリーンウェルの方が余計にタチが悪かった。

 引退後は自分の名前を冠した遊園地を建設後、広大な牧場を経営して過ごした。また、2005年にホセ・カンセコがステロイド使用を告白した暴露本を出版した際には、カンセコがMVPになった1988年の次点がグリーンウェルだったため、ステロイダーはアワードの対象外にすべきと主張した。

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リード・シークリスト
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1997
 タイガースの歴代思い出せない外国人ランキングの優勝候補。グリーンウェルの退団とハイアットの不振にフロントが狼狽。メジャー40人枠から漏れていたシークリストに目をつけ、低年俸で契約した。

 6月に来日してすぐに1軍登録され、初出場の巨人戦でいきなり代打タイムリー。1ヶ月ぐらい打率3割を維持していたが、オールスターのあたりからパッタリと打てなくなり、9月の途中に解雇された。

ダーネル・コールズ
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1997(中日96)
元有望株
 ⇒中日ドラゴンズ(1999年以前)参照

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グレン・デービス (登録名:グレン)
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1995~96
大物 問題児
 MLB通算190本塁打の超大物スラッガー。阪神では当然4番打者として期待された。近鉄のリチャード・デービスを思い起こさせるとして登録名はグレンになった。

 1985年にヒューストン・アストロズでメジャーデビューし、翌年はオールスターに選ばれると打率.265・31本塁打・101打点でシルバースラッガー賞にMVP投票2位と大ブレイク。通算1990年まで6年連続20本塁打以上を打ち、アストロズのトッププレイヤーであり続けた。90年オフに1対3のトレードでオリオールズへ移籍すると、呪われたかのようにケガが重なり、93年にメジャーのロースターを外された。このトレードは”オリオールズ史上最悪のトレード”と位置付けられている。94年はメッツのマイナーで打率.282・27本塁打・97打点と結果を残すもメジャーから声はかからず、この段階で日本行きを決断した。

 タイガースでは1年目の開幕から4番に君臨。大物に相応しい打撃を見せていたが、後半戦に入ると不振に陥り(この頃から○○が痛いと言い出すようになった)、打順も5~6番に下げられる試合が増加した。

 1年目はトータルで23本塁打。95年は平塚が4番を打ったほどの暗黒期だったためクビにはならなかったが、翌年に入って首脳陣との確執が表面化。練習態度の悪さと打撃不振を理由に、6月10日にクールボーと同時に解雇された。

 高年俸に見合っていなかったのもそうだが、来日すぐの4月の守備の際に、亀山努と激突したことで亀山の選手生命が縮んだのが何よりも痛かった。

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スコット・クールボー
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1995~96
 オマリーの後釜として獲得した強打の三塁手。サウスポーに強い右打者だった。1995年に来日し、オープン戦では好調もシーズン序盤に苦戦。後半戦で復調し最終的に帳尻を合わせた。翌年も契約を延長されたが、開幕から右目の不調で打てなくなり、6月に解雇された。

 固め打ちが得意?だったことで、シーズントータルの数字は良いが打線のブレーキになっている印象が強い選手だった。引退後は1999年からマイナー球団の監督やメジャーの打撃コーチなどを歴任し、20年以上に渡って現場で汗を流している。なお、弟のマイク・クールボーも元メジャーリーガーだったが、2007年に同じチームでコーチを務めていたときに試合中に打球が直撃し亡くなった。

クレイグ・ワーシントン (登録名:クレイグ)
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1996
 グレンとクールボーがダブル解雇され、代わりに入団した三塁手。1998年にオリオールズでメジャーデビュー。2年間サードでスタメン出場していたが、91年にレオ・ゴメスにレギュラーの座を奪われてからは3Aでの出場が多くなっていった。

 96年6月に阪神に途中入団。来日初戦から3番に座り、わりと打っていたのだが8月に右ふくらはぎの肉離れで欠場。シーズン終了間際に復帰したものの「華が無い」という理不尽な理由で解雇された。確かに翌年現れたグリーンウェルの方が華はあったが・・・

 守備も安定していてクビにするほど悪い成績でなかったが、出場22試合ではファンの記憶にも残らなかった。恐らく一番のハイライトはファーストネームのクレイグが登録名になり、マスコミに「打ってクレイグ、たのんマース」と書かれたことだろう。

ケビン・マース
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1996
元有望株
 まだメジャーでも有望株ランキングが無かった時代に、ニューヨーク・ヤンキースの名選手ドン・マッティングリーの後継者と期待された元トッププロスペクト。出だしは最速ホームランの記録を打ち立て、成功を収めたように見えたが次第に打てなくなり、1996年にタイガースに入団。クレイグとともに打線の中軸を期待されていた。

 ヤンキースでのマースのルーキーイヤーは輝かしいもので、デビュー後72打席で10本塁打を放つ当時最速記録を樹立した。イケメンだったこともあり、一部に熱烈な女性ファンがいた。79試合で打率.252・21本塁打・OPS.902の好成績でロベルト・アロマーに次ぐ新人王投票2位になった。しかし2年目は23本塁打を打ってはいたが弱点を突かれるようになり、打撃不振にあわせて出場機会が減少、ヤンキースを放出されていた。

 来日初打席から4番を任され本塁打を量産していたが、次第に対策を講じられてからは崩れていった。試合状況に関係なく大振りのプルヒッティングのスタイルは穴が大きかったようで、日本でもMLB時代とまったく同じような結末をたどった。応援歌も最初の頃はバースのものを継承していたが、打てなくなるとすぐに変更させられた。

トーマス・オマリー
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1991~94(ヤク95~96)
大活躍 期待以上
 阪神タイガースで4年間3割を打ち続けた優良外国人。来日時点ではメジャー実績が豊富なウィンに注目が集まっていたが、入団1年目から全試合出場。1993年には首位打者を獲得した。だが4年目のシーズン終了後「長打力がない」という過去にも何度か繰り返した理不尽な理由で解雇され、移籍先のヤクルトでMVPを獲得した。

 阪神ファンには忘れられない名選手であったが、引退後に駐米スカウトに就任。微妙な…というより全然…な外国人を立て続けに連れてきてしまい、スカウトとしては選手時代とは真逆の評価をされている。

ロブ・ディアー
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1994
大物
 メジャーリーグ通算226本塁打を記録した大物スラッガー。スポーツ・イラストレイテッド誌の表紙を飾ったこともある。阪神タイガースには破格の年俸2億7千万円で加入した。

 アメリカではひどい低打率と三振、我慢強い四球率とホームランが特徴的な、アダム・ダンの元祖のようなプレイヤーとして有名だった。1991年には当時メジャーワースト記録のシーズン打率.179を記録していた。日本では春季キャンプでは飛距離のある打球で「ディアーネット」を設置させるほどの期待を受けたが、シーズンに入ると成績は振るわず、右手親指の靱帯断裂により8月に退団となった。阪神ファンにとっては苦い記憶。

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ジム・パチョレック
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1992~93(大洋88~91)
優良助っ人
 確実性の高い打撃技術に加えてパワーも併せ持つ優良助っ人。大洋ホエールズに4年在籍、すべてのシーズンで打率3割をマークしているが、やや成績を落とした1991年に球団から「ホームランが少ない」と難癖をつけられ契約を切られた。

 これほどの優良物件を他球団が見過ごすはずもなく、タイガースはオマリーと友人であることを利用して契約にこぎつけた。少ないはずのホームランも移籍1年目には22本塁打を放った。2年目の1993年はチームの不可解なロースター編成のせいでレフトを守ることになり、守備の負担が増えたせいで腰痛を発症。「PKO問題」も相まって、シーズン中に現役引退を決断、帰国した。

マーベル・ウイン
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1991
大物
 MLBで8年・940試合に出場、主に中堅手でレギュラーを張っていた元大物メジャーリーガー。年俸も1億4千万と高額だった。攻走守に優れる外野手として期待されたが、日本の野球には合わなかった。同時期に入団したオマリーが1/3の年俸で大活躍したせいで余計に阪神ファンの印象は悪かった。

 ただ、オマリーより優れていたのは全力疾走を怠らない姿勢で、その点を高く評価する向きもあった。MLB時代の1991年には単打1本でサイクルヒット達成の状況で、最後の打席で長打コースを放つと迷うことなく二塁を狙い、サイクル未遂を起こしている。

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マット・キーオ
投手 アメリカ合衆国/在籍:1987~90
大物 大活躍
 MLBで3年連続2桁勝利を挙げた大物外国人投手。父親のマーティ・キーオは南海ホークスの元助っ人だったため、13歳のとき日本に住んでいた。

 タイガースではフォーシームとキレの良いカーブを武器に4年間在籍して45勝。4年目にヒザを痛めるまでエースとして多くのイニングをこなした。

リチャード・ウィリグマン (登録名:ウィッグス)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1990
 パリッシュの保険でタイガース入りしたメジャー経験のない外野手。第3の外国人選手としてウエスタンリーグで活躍していたが、パリッシュがシーズン終了前に退団したため1軍に昇格。結果は打率.191・1本塁打。

ラリー・パリッシュ
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1990(ヤク89)
大物
 ワニを食べる男、通称「ワニ男」として奇妙がられたホームランヒッター。MLB通算256本塁打の超大物でもある。1989年にヤクルト・スワローズでホームラン王になったにもかかわらず自由契約に。理由はノムさんに嫌われていた(パワー一辺倒の選手は好きじゃないらしい)からで、フィルダーに逃げられたタイガースが迎え入れた。

 90年のシーズン序盤からホームランを量産し、オールスターに選出する活躍っぷり。しかし8月に古傷のヒザの具合が酷くなり、8月27日に突然引退を表明。ヒザに問題があることは織り込み済みだったが、まさかシーズン中に引退するとは阪神首脳も想定していなかっただろう。この時点までセ・リーグトップのホームランを打っていたため大きな騒ぎになった。

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◇1980年代までに在籍した外国人選手
セシル・フィルダー
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1989
期待以上
 バースとジョーンズの後に26歳で阪神に入団したホームランバッター。来日前はメジャーデビュー以降、レギュラーを狙おうにもトレードの駒扱いを受けてチームを転々とさせられていた。嫌気がさしていたときに4番打者でオファーしてきたタイガースに入団を決め、来日した。

 オープン戦で三振の山を築きクビ寸前までいったが、変化球の多い日本の投手対策にアプローチを変えると即座に打球が前に飛ぶようになった。106試合で打率.302・38本塁打とこの上ない成績を残した。ただ、9月の試合で三振に怒り、地面に投げたバットが当たり小指を骨折してシーズン終了となってしまった。

 シーズンオフに帰国後、タイガース相手に5年契約と大幅昇給を要求。結局翌シーズンは、偶然にもデトロイトのタイガースと契約を結ぶことになった。MLB復帰後はメジャー13年ぶりとなる50本塁打を放ち、2年連続本塁打王を獲得。MVP投票でも2年連続2位のポイントを集め、瞬く間にスター選手の仲間入りをした。なお、デトロイトでは自動車の貿易摩擦に苦しんでいたため、地元紙から”デトロイトが受け入れた唯一の日本製品”と書かれた。

 息子のプリンス・フィルダーもホーラムン王を獲得するスター選手に成長。セシルは現役引退後、息子の代理人に専念した… はずだったが突然蒸発。ギャンブル依存症に陥って莫大な借金を抱えていたことが分かり、一時期プリンスと疎遠になっていた。

Embed from Getty Images来日前年にアナハイム・エンゼルスでプレーしたフィルダー
ランディ・バス (登録名:バース)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1983~88
大活躍 期待以上
 日本プロ野球史上最高級の助っ人外国人。タイガースの神様。マイナーのホームラン王を何度も獲得するパワーヒッターだったがメジャーの壁は厚く、阪神からの誘いを受けて1983年に来日した。初年度はシーズン後半から打ち始めて35本塁打。1985年には王貞治の記録に迫る54本塁打を含む三冠王を獲得。翌年は単一シーズン日本記録の打率.389をマークして2年連続の三冠王。阪神の優勝に大きく貢献した。

 ところが1988年、長男のザクリー君に水頭症が発覚する。アメリカで治療をするため一家で帰国した。手術は無事成功したが、回復するまで当面アメリカに留まりたかったバースに対し、村山新監督や球団首脳との関係が悪化。特に球団側は家族の治療費を払いたくないため、6月下旬に解雇を発表してしまう。しかし、球団の思惑に反して「5週間以内に再来日」する覚書を守って日本に戻ってきたバースは、不当解雇と治療費の未払いをマスコミに訴え、告訴も辞さない姿勢へと態度を硬化させた。7月に入って本格的に両者が決裂すると、7月某日、交渉役を任されていた古谷球団代表は責任を感じ、宿泊先のホテルニューオータニの屋上から投身する結末となった。

 なお、本来の発音はバスに近いが、路線バスのような報道をされることを避けるため「バース」と登録した。

ルパート・ジョーンズ
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1988
大物 元有望株
 不幸にもバース退団後の穴埋めで入ったため、最低でも3割30本塁打を求められた外野手。背番号00を日本球界に持ち込んだ男としても知られ、「ゼロゼロ怪人」と呼ばれた。ダグアウトで御香を焚いていた。

 実は結構な大物メジャーリーガーで、1977年に新球団のシアトル・マリナーズでレギュラーに抜擢。リロイ・スタントンと右中間コンビを形成し、160試合・24本塁打をマークし、(当時WARはまだ存在していない)同年のマリナーズ全選手中トップのrWAR 4.1を記録。その後パドレスなどで中堅手のレギュラーを務めあげ、通算1331試合・147本塁打・143盗塁にオールスター選出2度の実績を残した。

 阪神には1988年の途中に入団。

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リッチ・ゲイル
投手 アメリカ合衆国/在籍:1985~86
大物
 メジャー5シーズンを先発ローテーションで投げ、規定投球回達成5度、2ケタ勝利2度をマーク。一時期はエースの立ち位置だったこともある大物スターター。

 1985年に阪神タイガースに加入し、198cmの長身を活かして13勝、チームの優勝に貢献した。ただし防御率は4.30にリーグワーストの四球を与えており、強力打線に助けられた面が強かった。2年目は被打率を悪化させ解雇。

リチャード・オルセン
投手 アメリカ合衆国/在籍:1983~84
 1983年の阪神のマウイキャンプに飛び入り参加した元マイナーリーガー。そこで入団テストを受けて合格を勝ち取ったが、既にキム・アレンとバース、ストローターの3人を雇っていたため保留になっていた。だが投手陣のやりくりが苦しくなった6月、球団はストローターを電撃解雇してオルセンを選手登録。1年目は4勝2敗・防御率3.51とテスト入団にしては合格レベルの結果を残した。球威のあるファストボールがいい具合に荒れて抑えられていた。シーズン後にコントロールを良くしようとフォーム改造に取り組んだことが裏目に出てしまい、2年目は16先発で20被弾を食らい、解雇となった。

キム・アレン
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1982~83
 ドラフト外でプロ入りしながらメジャーリーグまで漕ぎつけた元スピードスター。カリフォルニア大リバーサイド校やプロ入り当初は目立った成績を残していなかったが、1980年に3Aパシフィック・コーストリーグで盗塁王を獲得。1913年から続く歴史あるリーグだが、84盗塁は歴代最多記録だった。同年9月にメジャー昇格すると23試合で10盗塁とアピールした。翌シーズンの開幕前には新人王のダークホースと有望視されたが、監督の目指すカラーに合わなかったのか、代走でしか使ってもらえなかった。

 1982年の来日が決まり、安藤監督の目指す機動力野球の戦力として迎えられた。だがシーズン前半にケガで長期離脱。外国人選手がジョンストン一人だけとなり、チームの戦力ダウンを招いた。2年目の契約も更新されたが、打撃で進歩が見られず解雇となった。

スティーブ・ストローター
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1983
 バースと共に阪神に加入したが、わずか2ヶ月で解雇された元外野手。1971年のドラフト入団後10年以上をマイナーで過ごし、1980年に30歳でメジャーデビュー。キャリア唯一のホームランをデニス・マルティネス(※ニカラグア人最高のMLBプレイヤー)から放つも、メジャーでの時間は限られ、阪神タイガースに入団した。

 第3の助っ人扱いの中、28試合・92打席で打率.276・5本塁打と結果を残した。ラムと違って実力は充分にあったが、6月に自打球を足に当てて骨折してしまうと、電撃解雇されてしまった。この年(1983)のタイガースは投手陣のやりくりに苦戦。リリーフの福間納のイニング数が規定投球回を超えたほど苦しい台所事情だったため、外国人枠を投手に割くための決断だった。

スティーブン・ラム
外野手 イタリア/在籍:1981~82
 日本球界では珍しいイタリア生まれの外野手。ニューヨークのクイーンズで育つ。メジャー経験は無いがイタリア代表に選ばれ、タイガースとは25歳と若いタイミングで契約した。育成予定だったと言われている。

 外国人3人目の序列だったが、デードの退団とゴンザレスの故障離脱によって予想外に早く一軍昇格が訪れた。が、実力的にNPBのレベルでは厳しく、2年目はほぼ出番なくその年限りで解雇された。

グレッグ・ジョンストン
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1982
 MLBで63試合出場経験のある元外野手。1982年にキム・アレンと一緒の年に来日。アレンが故障離脱してからは助っ人1人で奮闘した。しかし、打率.250に終わったヒッティングと気分屋な性格は好不調の波が激しかった。左打者を求めていたチーム事情のおかげで出場機会は多かったが、最終的には打撃・走塁守備ともにイマイチな成績に終わった。

 長打力よりも守備と走塁重視という点でキム・アレンと同タイプだったが、前年のオルトの守備が酷すぎたせいか、阪神球団はアレンとジョンストンを同時に獲得。2つしかない外国人枠にパワーヒッターを割かないという迷走を見せた。結果は表面上の成績はアレンより良かったがジョンストンの方だけ1年で切られた。

ダグ・オルト
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1981
 デードとともに入団した選手で、長打力を期待されていた。在籍1年で打撃成績は打率.307・18本塁打・OPS.852。率系のスタッツで好成績を残したが、骨折で長期離脱したほか守備走塁のマイナス点が目立ち、安藤監督の方針で準レギュラーのような不安定な起用法をされた。

 帰国・引退後は古巣ブルージェイズのマイナー球団の監督を務めた一方、プライベートは全く上手くいかなかった。最初の奥さんと離婚後、女医と再婚するも法令違反で医師免許をはく奪された。自分の事業も失敗して自宅を売却と苦難が続き、拳銃自殺した。

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ダン・ゴンザレス
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1981
 ”団権三(だんごんぞう)”のニックネームを持ち、チームメイトともすぐに打ち解けた外野手。デトロイト・タイガースとの提携によってシーズン途中に阪神タイガースに加入した。

 来日したのは6月だったが、到着直後に左足首の捻挫に靭帯損傷。一軍でプレーできるまでに3カ月かかった。ようやく一軍デビューしたのは9月27日。これほどまでに 時に既に遅し、という言葉がピッタリなシチュエーションはあるだろうか?

ポール・デード
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1981
 メジャーで初めて背番号00をつけたことで知られる外野手。俊足がウリで、エンゼルスからドラフト1巡目指名でプロ入り。1977年にクリーブランド・インディアンスでキャリアハイの134試合・134安打・打率.291・16盗塁を記録。MLB通算成績は439試合・打率.270・10HR・57盗塁。

 阪神では俊足巧打のトップバッターとして期待されたが、メジャー時代から痛めていた右ヒジ痛に終始悩まされ、出塁率・長打率はともに2割台。シーズン途中で解雇された。

マイク・ラインバック
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1976~80
元有望株 大活躍
 1976年にブリーデンとともに来日し、5年にわたって活躍した人気選手。サンディエゴで生まれ、UCLAに進学後ドラフト1巡目(全体17位)でボルティモア・オリオールズに入団。1972年にAAのサザンリーグで打率.346・30本塁打を記録しリーグMVPを受賞。1964年に発足したサザンリーグだが当初MVP表彰はしておらず、この年のラインバックが初の受賞者だった。

 当時プロスペクト・ランキングがあったら間違いなくtop100に入っていたであろうラインバックだったが、1970年代半ばのオリオールズは常にリーグ1位を争う黄金時代。特に外野はメジャー史に残る陣容を有していた。ドン・ベイラー、ポール・ブレア、ケン・シングルトンのレギュラーのほか第4の外野手アル・バンブリーが立ちはだかり、サブポジションの一塁はMVPブーグ・パウエルが守っていた。デビューイヤーには一塁手兼外野手の球宴選手リー・メイが移籍してきてしまいThe End。メジャーに見切りをつけ、1976年にタイガースに入団した。

 阪神ではブリーデンや田淵らとクリーンナップを組み、3度の打率3割、ホームランも安定して20本前後を記録。守備では一塁へのヘッドスライディングやフェンスを恐れぬランニングキャッチ…数々のハッスルプレーで大きな人気を誇った。1979年を最後に契約更新をしないことがわかると、タイガースファンから抗議の電話が殺到した。

 退団後は10年間、急成長真っ只中のホームコンピューター業界で働いた。1989年に南カリフォルニアの山道を運転中に事故死。その事実は翌年のスポーツ紙で小さく報じられた後、探偵ナイトスクープの伝説回”ラインバックは死んだのか”で取り上げられ大反響を生んだ。

ブルース・ボウクレア
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1980
 ヒルトン退団後の穴を埋めるために阪神に入団した、いわゆる三拍子揃ったタイプの外野手。メジャー時代、メッツで外野の準レギュラーのような立ち位置になり、1976~78年には3年連続で100試合以上に出場。79年に出場機会が激減し、外野手を求めていたタイガースへの移籍を決意した。

 日本では長打力が無いわりに打率も上がらず、起用機会を与えても打撃成績は振るわなかった。ただ球団はなぜか再契約の意向を示していたが、ボウクレア自身がメジャー復帰を希望し、日本を去った。

デーブ・ヒルトン
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1980(ヤク78~79)
 日本で波乱のキャリアを過ごした優良外国人。常に全力プレーを怠らず、極端なクラウチング打法が特徴的だった。ヤクルトを2年限りで解雇された後、ブレイザー監督の意向でタイガースが獲得。元の本職はショートだが肩の衰えが見られ、セカンドかサード起用が前提だったヒルトン。一方のタイガースはドラフト1位で岡田彰布を獲得していた。サードの掛布雅之は動かせず、岡田はセカンドにコンバートされることになったが、これによりヒルトンとポジションが被ってしまった。

 ブレイザー監督は実績のあるヒルトンを優先的に起用する方針だったが、球団フロントとファンはスター候補の岡田を使うことを望んだ。この対立はシーズン中に激化。ヒルトンの成績が振るわなかったこともあり、ヒルトンは早くも5月に帰国するに至った。

 それから1週間と間を置かずにブレイザー監督も解任された。ヒルトンのタイガースでの打撃成績は18試合・打率.197。勝てないチームへのファンの怒りを前面に受けてしまう、気の毒なシーズンだった。

◇1970年代までに在籍した外国人選手
リロイ・スタントン
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1979
 メジャー通算829試合・77本塁打の実績があったパワーヒッター。ロサンゼルス・エンゼルスの右翼手のレギュラーを務めていたが、チームがボビー・ボンズを獲得したため居場所を失う。1976年の新球団拡張ドラフトでシアトル・マリナーズに移籍、マリナーズ元年にキャリアハイの27本塁打をマークした。

 1979年に阪神に入団。シーズン136三振のセ・リーグ記録と、34試合連続三振の日本ワースト記録を樹立し、”打たんトン”と揶揄されるほど苦んだ。横浜スタジアム初の場外本塁打を放つなど印象に残る一打もあったが、1年で解雇となった。

 ところでメジャーの大物選手のうち、FAやトレードでニューヨーク・メッツに移籍すると大コケする歴史が続いている。1971年のオフ、メッツはロサンゼルス・エンゼルスから1対4のトレードでジム・フレゴシを獲得。それまでオールスターの常連(6度選出)だったフレゴシは、メッツに入ると故障と打撃不振に苦しみ、1年半で放出された。一方でトレード相手のノーラン・ライアンは移籍1年目から大ブレイクし、説明不要な大選手へと成長した。…ライアン以外の”ほか3人”のうちの1人がスタントンであり、彼もまたエンゼルスで初めてレギュラーを掴んだのだった。

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ハル・ブリーデン
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1976~78
元有望株 大活躍 優良助っ人
 ”赤鬼”と呼ばれ、タイガース史上有数の優良外国人選手だったパワーヒッター。マイナー時代、のちに殿堂入りするホイト・ウィルヘルムと交換トレードされるほどの有望選手だった。兄の捕手ダニー・ブリーデンとともに元メジャーリーガーで、2人ともメジャー定着できなかったが、シカゴ・カブス時代にチームメイトになると数試合を同時に出場することができた。

 1976年からタイガースでプレイ。初年度から王貞治との本塁打王を争い、タイトルは逃すも40本塁打。2年目も37ホーマーを放ち、チームの主軸として活躍した。ファーストの守備力も高く、特にショートバウンドの送球処理が上手かった。しかし、1978年は右ヒザの靭帯を損傷、帰国後に解雇となった。

 ふだんはおしゃべりが大好きでリーダシップもある、グラウンド内外で好感が持てる男だった。引退後は故郷のジョージア州のリー郡で保安官になり、落選するまで20年間務めあげた。

ボビー・テイラー (登録名:テーラー)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1974~75(中日73)
 メジャーでは打力が足りず来日したが、ドラゴンズでは結果を出せず解雇された。翌年タイガースに拾われると1,2番打者としてレギュラーに定着。1974年にはまさかのオールスター出場も果たした。とはいうもののシーズン全体では127試合・12本塁打・打率.278の成績で、より強力な助っ人を求める方針により2年で解雇となった。

 実は選球眼が極めて優秀で、常に出塁率だけは高かった。マイナー時代から三振を大きく上回るフォアボールを選び、阪神での2年間は両年とも四球>三振をマーク。現代ならもっと評価されたプレイヤーだったと思われる。

 ⇒中日ドラゴンズ(1999年以前)参照

ジョージ・アルトマン
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1975(東京・ロッテ68~74)
大物
 日本とアメリカ両方で長く活躍した希少な優良外国人。NPBには35歳から東京/ロッテオリオンズに7年在籍。外国人選手で初めて通算200本塁打を放ち、通算打率も3割超の打撃成績を残した。最後に1年だけタイガースで過ごしている。

 オリオンズでの7年目のシーズン中に大腸ガンが発見され、治療のため帰国。オフに大幅減俸で再契約オファーしたオリオンズとは交渉が決裂し、プレーの場を求めて阪神タイガースへ移籍した。

 1975年のタイガース入団時はすでに42歳。年齢に加えてガン治療後のハンデには勝てず、打率.274・12本塁打に終わった。ただしアルトマンが5番に座っているだけで相手投手にプレッシャーを与える効果があったようで、4番の田淵は例年より敬遠四球が減り、自身1度きりの打率3割超え(.303)・ホームラン王を75年に達成している。

ウィリー・カークランド
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1968~73
大物 元有望株 優良助っ人
 MLB・NPB両方で長く実績を残した数少ないスラッガー。プロ入り後に早くから有望視され、マイナー時代に3度の35本塁打以上に加えて首位打者と打点王を獲得。メジャーでは1959年から4年連続で20本塁打以上をマークしていた。

 1968年に阪神に入団すると、豪快なバッティングから期待通りに本塁打を連発。巨人戦に滅法強かったうえ、ファンサービスにも積極的だったことでファンから高い人気を誇った。クロスプレーの影響で前歯を義歯にしたせいで風船ガムを嚙めなくなり、代わりに爪楊枝を噛んでリラックスしていた。粗い打撃ではあったが確かな長打力でチームに貢献し、在籍期間はバースやマートンと同じ6年に及んだ。

 タイガースを退団したとき38歳だったためそのまま引退。以後はゼネラルモーターズで自動車整備に従事し、野球界から距離を置いた。

Embed from Getty Imagesサンフランシスコ・ジャイアンツではウィリー・メイズ、ウィリー・マッコビーの3人で「ウィリーズ」を形成。チームの快進撃を支える原動力になっていた
レオン・マクファーデン (登録名:マックファーデン)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1972
 大柄だが長打力が少なく、強肩を活かした守備と脚が強みの内野手。メジャーに上がったシーズンが3年あったがベンチプレイヤーに留まっていた。立て続けに期待に背いていた外国人野手の次なる打線の軸としてタイガース入りした。

 内野守備と真面目な性格は現場からの信頼が高かったが、阪神首脳はゲインズ、バレンタインに代わる助っ人ということで強打を求めていた。打撃成績が求めるレベルでなかった(54試合・打率.283・2本塁打)という理由で減俸の2万ドルで契約更改しようとしたところ、帰国中のマクファーデンは首を縦に振らず。交渉は翌春季キャンプにズレ込み、最低3万ドルを希望するマクファーデンは年俸調停を申請。結果は球団側の金額が妥当との裁定が下ると、任意引退を選びマイナーリーグに戻った。

 この年俸調停制度はこれまで使われたことがなく、外国人選手ながら適用第1号に。時は流れて1991年、落合博満が日本人で初めて申し立てたときも大きな注目も浴びた。

 ちなみにマクファーデンの生まれはアーカンソー州だが、高校はロサンゼルスにあるフリーモント高に進学。アメリカで最も多くメジャーリーガーを輩出している高校で、殿堂入りのボビー・ドーアのほか1960年代に来日したグレン・ミケンズ(近鉄)やアル・グルンウォルド(大洋)も先輩にあたる。また、息子のマクファーデンJr.はアメフトの道に進みNFLプレイヤーになった。

息子のポジションはコーナーバックだったEmbed from Getty Images
フレッド・バレンタイン
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1970
 カークランドや田淵らと並ぶ打線強化のため入団した黒人選手。スイッチヒッターだったことも期待を大きくさせた。パワフルな打撃がウリだったが、日本では期待されたほどの成績を残せなかった。

 アメリカでは1959年にMLBデビューもマイナー生活が続き、63年に4年ぶりに再昇格を果たす。ワシントン・セネタースでレギュラーを掴むと、66年には打率.276・16本塁打・22盗塁・OPS.806をマーク、MVP投票で4ポイントを獲得する活躍を見せた。しかし翌年以降は出場機会を減らし、68年に阪神タイガース入りした。

 開幕から3番を任されたバレンタインだったが凡打が続く。下位打線に下げると復調するが、クリーンナップに戻すと調子を崩す…を繰り返した。シーズントータルでホームランも11本にとどまり、低打率も相まって解雇となった。

Embed from Getty Imagesグレープフルーツリーグのとある試合で「ヒットで出塁したフレッド・バレンタインを牽制で刺そうと、一塁手のミッキー・マントルがタッチを試みる」シーンだそうだ
◇1969年以前に在籍した外国人選手
ジョー・ゲインズ
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1969
 右打者のカークランドが大成功だったため、今度は左打者をということで獲ってきた外野手。カークランドと同じようにメジャー経験者・ベテラン(33歳で来日)・外野手ではあったが、決定的に違ったのは経歴と武器。同じ元メジャーリーガーといえど、マイナー時代から有望株だったカークランドとは格が違う。またゲインズはどちらかというと打撃より盗塁重視の選手で、昔の助っ人に求める強打者ではなかった。

 阪神に入団した際に”ヒット、ホームランをたくさん打つ”、”盗塁王を狙う”と宣言。チームも初めは期待したが、シーズンが進むにつれ実力を発揮できず、6月初めにはスタメンを外されることとなった。

ジーン・バッキー
投手 アメリカ合衆国/在籍:1962~68(近鉄69)
大活躍 期待以上
 テスト入団で加入しながら通算100勝を達成したタイガースの名投手。7年在籍して最多勝1度、最優秀防御率1度、沢村賞1回、球宴選出5度の実績を残し、1964年の優勝に大きく貢献した。適度に荒れる速球で攻めるピッチングスタイルを貫き、ナックルボールも駆使していた。

 バッキーは元々ハワイのAAA球団・アイランダーズに所属していたが、オーナーが見ている試合で大逆転負けを喫し、戦犯の1人としてクビに。その後、日系人が中心のハワイ朝日軍でプレーしているうちに日本行きを希望するようになり、1962年に阪神にテスト入団した。

 来日2年目に一軍に定着、規定投球回数をクリアして8勝・防御率2.49を記録した。3年目には29勝9敗・防御率1.89で最多勝と最優秀防御率、沢村賞を獲得し、名実ともに阪神のエースとなった。翌年には巨人戦でノーヒットノーランを達成。巨人戦に強いことも彼の価値を高めた。

 しかし、1968年の巨人戦”バッキー荒川事件”と呼ばれる乱闘事件で右手親指を骨折し、これが彼のキャリアを終わらせた。1969年は近鉄バファローズに移籍するも結果を出せず、引退後はアメリカで高校教師を務めたあと牧場経営をして過ごした。

マイク・クレスニック (登録名:クレス)
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1967(大洋63~65,近鉄66)
 大洋と近鉄で大活躍した優良外国人。近鉄を退団後、日本に残ってキリスト教の教会を手伝っていたのを、阪神球団が説得して1967年途中に現役復帰させた。

 結局タイガースでは43試合で打率.215・5本塁打。引退した選手を無理に引っ張り出すとこうなるということが分かった。

ピーター・バーンサイド
投手 アメリカ合衆国/在籍:1964~65
 メジャー時代の元同僚ドン・ジマーと友人の技巧派左腕。メジャーで196試合・64先発とそれなりの実績を持ち、キャリアの終わりに来日した。

 タイガースでの在籍2年間で10勝22敗だったが、1年目は5勝8敗・防御率3.36、2年目は規定投球回をクリアしながら5勝14敗・防御率2.91。打線の援護に恵まれない試合が多かった。それでもフォアボールが少ないピッチングは安定感があり、村山実、バッキーと同列にローテーションの軸として起用された。ただ入団時点で34歳。年齢的な理由から2年を以って契約は更新されなかった。

 イリノイ州生まれなので幼いころからシカゴ・カブスファン。大学を歴史と社会学のダブルメジャーで学位を取得した秀才で、引退後はイリノイ州の母校で教鞭をとり、野球部の監督も務めた。

ワシントン・セネタース時代に勝利を喜び合う(右がバーンサイド)Embed from Getty Images
チコ・フェルナンデス
内野手 キューバ/在籍:1965
大物 問題児
 スタメン落ちすると急に連絡を絶って首脳陣批判をした問題児… 阪神ファンからは負のイメージで認知されている元メジャーリーガー。キューバ出身。本名はウンベルト・フェルナンデス。

 1932年生まれのフェルナンデスはブルックリン・ドジャースに入団。有望株として見られていた一方でドジャースのショートにはピー・ウィー・リース(1984年にMLB殿堂入り)が君臨。ショート以外も充実していた内野陣に割って入れなかった。トレードでドジャースを出た1957年からはショートでスタメン出場するようになり、約6年に渡ってレギュラーを死守した。1962年には初めて2ケタに達する20本塁打をマークするも、翌年以降は出番を減らし、1965年に阪神に入団した。

 メジャー時代にあまりサードの経験はなかったが、いつまでも埋まらないソロムコの穴埋めを期待された。ただ、どうも日本の野球をナメていたようで、春季キャンプでは調整が遅れ、オープン戦も低調。シーズンに入っても全く打てなかった。ついにスタメン落ちが決まった日にはチームと連絡を絶ち、マスコミに首脳陣批判を展開。問題行動が続いて1年で解雇された。

Embed from Getty Images初めてメッツのユニフォームを着た新人時代のチコ・フェルナンデス。監督のケーシー・ステンゲルに帽子を被せられる。
レノ・ベルトイア
内野手 イタリア/在籍:1964
大物
 日本では特に阪神ファンからは初代ダメ外国人と思われているが、カナダの野球殿堂に入っている偉大な選手。イタリア生まれだが、2歳のときにカナダのオンタリオ州に移住。隣の家に住んでいたハンク・ビアサッティと親しく、マイナーリーグ時代のルームメイトのアル・ケーラインとは親友と呼べる仲だった。ビアサッティはヨーロッパ人初のNBA選手、ケーラインは「ミスター・タイガー」(デトロイトの方ね)の超大物。

 阪神タイガースでは1963年にサードのヤシックが打てず、補強が必要となっていたためベルトイアを連れてきた。メジャー経験豊富ということで大きな期待が寄せられ、バッキー、バーンサイド、ベルトイヤの3人で”3Bトリオ”の愛称が付けられた。

 しかし、ベルトイヤは全く打てず、打率.175・1本塁打に終わり、妊娠中の奥さんの体調が悪化したことを理由に4月下旬に解雇。NPBのキャリアは1ヶ月にも満たなかった。

 引退後はカナダに戻って地元高校の教師を30年務めた。2011年にガンで亡くなると、親友のケーラインやカナダ野球殿堂、多くの教え子たちがベルトイアに哀悼の意を表した。カナダ野球殿堂の会長兼CEOもベルトイアの教え子だった。

 なお、ベルトイア自身はカナダにルーツがあると考えていたが、イタリア生まれという面でもトッププレイヤー。メジャー通算612試合出場はイタリア生まれでは最多である。20世紀前半は移民の子がメジャーリーガーになるケースがあったため、ベルトイアで歴代6人目のメジャーリーガー(1953年)だったが、ベルトイア以降はなかなか現れず、2011年にアレックス・リディがデビューするまで待たねばならなかった。

マイク・ソロムコ
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1960~63(東京64~65)
大活躍
 米軍の座間キャンプ勤務を経て大阪タイガースに入団した元外野手。ペンシルバニア州出身。非東洋系ではタイガース初の外国人プレイヤーである。メジャー経験は無く、マイナー最高位はAAA。1958年に駐日軍人として来日し、1960年にカイザー田中(田中義雄)の紹介で大阪タイガースの入団テストを受け契約した。

 ソロムコは中距離打者タイプでありながら長打力もあり、初年度は99試合で4試合連続本塁打を含む17本塁打。オールスターにも出場した。4年もの間主軸打者として活躍したが、1963年に東京オリオンズの若生智男の交換相手となって放出された。貧打にあえぐ猛虎打線には失敗に挙げられるトレードだった。

 毎日オリオンズで2年プレーして現役を引退。アメリカに帰国せず日本に留まり、1970年に輸入調理器具の訪問販売会社『イージーウェア』を設立した。

フランク・ヤシック
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1963
 吉田義男と三宅秀史。2人が組む三遊間はタイガース史に残る名コンビであったが、1962年に試合前の練習中に三宅が顔面でボールを受け、眼窩底骨折の重傷を負ってしまう。彼の穴を外国人選手で埋めようと探し出したのがヤシックだった。

 メジャー経験の無いヤシックだったが、球団からは背番号1を与えられ、入団発表の際にシーズン40ホーマーを宣言。だが実際の成績は打率2割を切り、ホームランはたった2本。三塁守備も名手三宅に遠く及ばず、期待を大きく裏切る結果に終わった。

 シーズン終了後にヤシックは解雇。また、三宅も眼の怪我が大きく響き、負傷前のレベルまで回復することはなかった。

マーク・ブラウンスタイン (登録名:ブラウン)
投手 アメリカ合衆国/在籍:1962
 カリフォルニア大学を卒業後、直接阪神タイガースに入団した異色の経歴を持つアマチュア選手。本名はブラウンスタインだが登録名はブラウンであった。

 学生から直接タイガース入りしているので当然プロ経験はなく、21歳の若さで来日。オープン戦から球威とコントロール両方に課題を露呈し、開幕時は二軍スタート。6月には念願の一軍に昇格したが、加減を知らずに練習したせいで右肩を故障。一軍にはしばらく帯同しただけに終わった。

 シーズン終盤にダメもとで野手転向を図るも失敗に終わった。初めからプロレベルではなかったと見られている。それでも背番号は18番を与えられ、ある程度期待はされていたらしい。

◇大阪タイガース及び阪神軍(1936~60年)時代に在籍した外国人選手
藤重登
捕手 米領ハワイ準州/在籍:1959~61(南海56~57)
日系人
 南海ホークスを退団してハワイに帰ったが、カイザー田中(田中義雄)に呼び寄せられ2年ぶりに日本球界復帰した。キャッチャーとしての技術に定評があったが打力が低かったと言われている。南海時代より多く試合に出た(南海33試合、阪神122試合)が、1961年シーズンをもって今度こそ帰郷した。

小島勝治
外野手 米領ハワイ準州/在籍:1952~54
日系人
 ハワイ準州出身の日系人選手。1923年8月7日にオアフ島ワイパフで生まれた。ハワイレッドソックスに在籍し、1952~54年に大阪タイガースでプレーした。俊足がウリの中堅手で、1年目にリーグトップの三塁打を記録している。54年シーズン終了後、球団がコストカットの方針を打ち出し解雇された。

与儀眞助
内野手 米領ハワイ準州/在籍:1953~54(金星57)
日系人
 1928年2月13日ハワイ・オアフ島ワイパフで生まれ、来日前はハワイレッドソックスに在籍。同じワイパフ出身の先輩でもある小島の推薦によって、小島より1年遅れて大阪タイガースに入団した。

 来日1年目にリーグ10傑に入る打率.295に14本塁打の好成績でサードのベストナインを受賞。与儀の活躍のおかげで衰えが見えてきていた藤村冨美男をファーストにコンバートできた。しかし、2年目は成績を悪化させ、小島ともども経費削減のためカットされた。

 1957年に1年だけ大映ユニオンズでプレーした。

若林忠志
投手 米領ハワイ準州/在籍:1936~44,46~49(毎日50~53)
大活躍 日本に帰化 日系人
 ハワイ移民の両親のもとハワイ準州オアフ島で生まれた日系二世。プロ野球の社会的地位が低かった時代に活躍し、戦中・戦後復興期に野球界に貢献し、兼任監督も務めた。

 1936に28歳で大阪・阪神タイガースと契約してから49年まで在籍。エースとして積み上げた記録は通算501試合・233勝(136敗)・259完投・3436回2/3・防御率1.90...有力な日系人選手を多くスカウトさせ、グラウンド内外で大きく貢献した。本来なら「ミスター・タイガース」と呼ばれるべき働きだったが、1950年に新球団の毎日オリオンズに主力選手を連れて、引き抜きの形で移籍したため、長く裏切者扱いをされてきた。ただ時が経って憎悪のファン感情は薄れていき、2011年に球団独自の”若林忠志賞”が設立された。この賞は優れた社会貢献活動をした虎戦士に贈られる、阪神版ロベルト・クレメンテ賞である。

 なお、背番号がいろは順に割り付けられていた当時、若林は18を付けていた。1960年代以降から18=エースナンバーのイメージが日本球界全体に波及していった。いわば元祖といえる選手でもあるが、当のタイガースでは18はエースナンバーではない。藤村隆男は2番、村山実11番、小林繫19番、江夏豊28番、えもやんに井川慶29番・・・といった具合に見事にバラけている。藪恵壹に至っては入団時18だったのを途中で4番に変更しているほど、タイガースというのは背番号に拘りのない球団なのだ(バッキーとキーオも4番だった)。

呉昌征
外野手 台湾/在籍:1944,46~49(巨人37~43,毎日50~57)
日本に帰化
 1リーグ時代の巨人と阪神、2リーグ以降に毎日で活躍した元台湾人選手。日本統治下に現在の高雄市で生まれ、現役時代は台湾国籍だったが還暦の年に日本に帰化。”石井昌征”になった。

 ハイレベルな打撃技術と俊足、強肩を誇り、人間機関車と呼ばれ、タイガース時代はチーム事情から投手も兼任。1946年は主に1番センターで出場しながら14勝6敗・防御率3.03を記録。打率も.291を記録する本物の二刀流を成功させた。

大館勲
内野手 米領ハワイ準州/在籍:1949(毎日50~55)
日系人
 体重90kg台後半の巨漢スラッガーだった日系二世。1917年4月ホノルルで生まれた。孫の紫雷美央・紫雷イオ姉妹は女子プロレスラー。

 現在の龍谷大平安高校の平安中学でレギュラーとして甲子園に出場し、卒業後は専門学校で柔道を極める。兵庫県警で師範と掛け持ちで野球をやっていたところを1949年にタイガースが獲得した。契約時点で31歳だった。

 1年目は42試合に出場したが、アマチュアNo.1捕手・徳網との交換トレードで毎日オリオンズに移籍。タイガースのベテラン正捕手・土井垣が新球団の毎日から囲い込みを受け、逆に毎日に内定していた徳網が出番減を嫌ったことで異例のトレードが成立した。2リーグ制移行期のゴタゴタに巻き込まれる形で、大館はタイガースには1年しかいられなかった。

田中義雄
捕手 米領ハワイ準州/在籍:1937~44
大活躍 日本に帰化 日系人
 「カイザー田中」と名乗っていたハワイ準州出身の日系アメリカ人。ハワイ大学時代にドイツにかぶれていた田中に、ドイツ語で皇帝の意味を持つ”カイザー”のあだ名がついていた。眼鏡をかけてプレーしていた。

 生年月日については諸説あり。NPB公式は1909年7月20日生まれとしているが、1985年に死去したときは78歳(1907年4月2日生まれ)と報じられているほか、Baseball-Referenceでも1907年生まれとされている。

 ハワイで高校教員をやっていたが、日米関係の悪化で二重国籍のどちらかを捨てなければならず、日本人の母親の強い反対で日本国籍を選択。教員を辞め、若林忠志の勧誘で大阪タイガースに入団した。タイガースでは前年に正捕手が退団しており、1937年秋季リーグからカイザーが正捕手の座に収まった。

 強肩に加えて、当時日本よりハワイの方が野球のレベルが高かったため、キャッチャー周りの技術は日本人選手を圧倒していた。(オールスターの前身にあたる)東西対抗戦に5度選ばれている。

 1944年に日本軍に招集されるとそのまま引退。戦後もプロ野球に関わり続け、1958~59年にはタイガースで監督を務め、天覧試合で指揮を執った。

堀尾文人
外野手 米領ハワイ準州/在籍:1939~41(阪急軍36~38,巨人35)
日系人
 NPB初の外国籍選手、かつ初の(実質的に)スイッチヒッターと知られる日系二世選手。東京巨人軍からメジャーリーガーを目指すも夢破れ、阪急軍でプレー。若林忠志に誘われ日本3球団目となる阪神軍でプレーした。

 当時の阪急・阪神軍は敵対意識が強く、グラウンドで頻繁に罵声を浴びていたという。1941年のシーズン中にアメリカ政府からの召喚指令があってハワイに戻り、49年に骨肉腫のためガンで死去した。

亀田敏夫
投手 米領ハワイ準州/在籍:1939~40
日本に帰化 日系人
 ハワイ準州オアフ島生まれの日系二世。大和軍で活躍した亀田忠は実兄。ミッドパシフィック高校でカイザー田中(田中義雄)から指導を受け、ハワイ大学在学中に田中から日本球界に誘われたことで、中退して大阪タイガースに入団した。

 タイガースでは1939~40年に在籍して7試合に登板。キレのいいカーブが持ち球だったが、日本の生活に戸惑っていたと言われている。1941年シーズン前に他球団への移籍が決まりかけるも日米関係が悪化。アメリカ政府からの召喚命令に従い、交換船で帰国した。

朴賢明(ぼく・けんめい)
投手 北朝鮮/在籍:1938~39
 日本統治下にあった時代に平壌で生まれた元投手。北朝鮮国籍。京城府(現在のソウル特別市)の実業団で野球をやっていて、朝鮮遠征中の明治大学相手に投げていたのを大阪タイガース関係者が見ていたのが入団のきっかけと伝えられている。タイガースでは公式戦登板2試合のみ。打撃投手役がメインだったらしい。

 実兄の朴賢植は韓国を代表する強打者で、KBO(韓国プロ野球)発足年の6球団の1つ、三美スーパースターズの初代監督を務めた(1ヶ月持たずに辞任した)。朴賢明の方はタイガース退団後、朝鮮戦争以降に北朝鮮に定住したこと以外は確かな記録が残っていない。

古川正男
投手 米領ハワイ準州/在籍:1936(イーグルス37)
日系人
 ハワイ準州出身のアンダースロー投手。ハワイ大学に進学後、学業と野球のどちらが理由かは不明だが、明治大学に転学するために1935年に来日。年明けの野球部の練習中に若林忠志からスカウトされ、大阪タイガースに入団した。

 タイガースではアマチュア相手の試合に登板記録があるものの、公式戦登板はゼロ。出場機会を求めてイーグルス(元・後楽園イーグルス)へ移籍した。