MLB名鑑.com NPB助っ人外国人一覧
【2024年までに在籍した外国人選手】 【2020年までに在籍した外国人選手】 【2015年までに在籍した外国人選手】 【2010年までに在籍した外国人選手】 【2005年までに在籍した外国人選手】 |
◇2024年までに在籍した外国人選手 |
49 J.B.ウェンデルケン
投手 在籍期間:2023~24 アメリカ合衆国/1993年3月24日生/右投右打 期待以上 |
【NPB】89試合3勝3敗3S 防御率1.67 BB/9 3.2 K/9 8.2
【MLB】144試合10勝6敗2S 防御率4.00 BB/9 3.9 K/9 8.5 ============ 選手紹介 ============ 2023年に新加入した巨漢投手。来日1年目からリリーバーとして好成績を残したため、オフに日米球団の間で争奪戦が繰り広げられたが、この年はDeNAに残留することに決定。再来日した際にサングラスを掛けた見た目がくまだまさし激似で、インスタをフォローし合う一連の流れが話題になった。 2024年も悪くない投手成績だったが、同僚助っ人たちが軒並み好成績を残し、育成契約のディアスが育ってきた背景もあり、惜しまれながらも退団していった。 Embed from Getty Images |
99 マイク・フォード
一塁手 在籍期間:2024 アメリカ合衆国/1992年7月4日生/右打左打 元有望株 |
【NPB】6試合 打率.200 安打4 本塁打1 OPS.623
【MLB】252試合 打率.205 安打141 本塁打37 OPS.700 ============ 選手紹介 ============ ヤンキース傘下のマイナー時代から有望株として期待されていたパワーヒッター。MLBでは2桁本塁打を2度記録した実績を持つ。一方で、守備や走塁面は絶望的なため、打撃で結果を残せなければキツい。プロ入り前は名門プリンストン大学で学んだ秀才であり、優れた人間性でも高い評価を得ている。 2024年、メジャー6球団目となったシンシナティ・レッズでプレーしていた。シーズン途中にDFAとなったところを、7月にDeNAと契約合意した。しかし、外国人枠の制約によりレギュラーシーズンでの出場機会は限られ、6試合で打率.200・1本塁打と不本意な成績に終わった。 出場機会を得たクライマックスシリーズでは一転して輝きを放つ。阪神戦では村上頌樹、巨人戦では戸郷翔征という両チームのエースから本塁打を放ち、相手エースを粉砕する値千金の活躍。さらに日本シリーズでも安定した打撃を見せ、ポストシーズン全体では12試合で打率.333・OPS1.012を記録した。 他の外国人選手たちが好成績を残した背景もあり、2025年の契約延長は見送られた。しかし、フォードの存在なくして日本一の達成は不可能だったはずであり、ファンからは感謝と敬意を持って送り出された。 |
110 アレクサンダー・マルティネス
投手 在籍期間:2024 ドミニカ共和国/2002年12月30日生/右投右打 |
【NPB】1軍出場なし
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ 今季ドミニカ共和国でのトライアウトで選抜して連れてきた育成投手。ルーキー級のドミニカン・サマーリーグのほかウィンターリーグへの出場記録がなく、経歴に謎が多い選手だった。 同時期に契約したモロンより若く身長198cmとカタログ面で勝り、名前のカッコよさもファンからは期待感を持って受け入れられていた。だが、先住者のジョフレック・ディアスが支配下登録を勝ち取り、22歳のマルセリーノを育てる方針が固まったことでマルティネスとモロンの戦力外が決まった。 |
105 ウィルニー・モロン
投手 在籍期間:2024 ドミニカ共和国/2000年12月28日生/右投右打 |
【NPB】1軍出場なし
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ アレクサンダー・マルティネスとともにドミニカ共和国から連れてこられた育成投手。2023年までドミニカン・サマーリーグのコロラド・ロッキーズ傘下のチームで4年間プレーしたが渡米することはなかった。 |
62 エドウィン・エスコバー
投手 在籍期間:2017~23(日ハム17) ベネズエラ/1992年4月22日生/左投左打 元有望株 大活躍 期待以上 160km/h |
【NPB】395試合22勝23敗5S 防御率3.17 BB/9 3.3 K/9 8.8
(日ハム) 14試合1勝2敗0S 防御率5.64 BB/9 5.2 K/9 7.7 (DeNA) 381試合21勝21敗5S 防御率3.02 BB/9 3.2 K/9 8.9 【MLB】27試合1勝2敗0S 防御率7.01 BB/9 4.2 K/9 6.7 ============ 選手紹介 ============ 最初は日本ハムファイターズと契約した左腕リリーバー。2017年に24歳という若さで来日し、シーズン途中に捕手・黒羽根との交換トレードでベイスターズに加入。このトレードは、1988年のラルフ・ブライアント以来29年ぶりの「来日1年目の外国人選手がトレードされる」珍しいケースだった。 ベイスターズ加入後、すぐに勝ち試合のリリーフを任されるようになり、登板数を毎年重ねていった。2019年にはリーグ最多の74試合に登板し、さらにプロ野球史上初となる左腕投手での160km/hを記録。これにより球界屈指のタフネスリリーバーとしての地位を確立した。 退団後はアメリカに戻ったものの、現在もDeNAを気にかけている様子。2024年オフにはSNSで復帰を希望する投稿をしていた(ただし、チーム状況から実現の可能性はほぼない)。 Embed from Getty Images |
99 ネフタリ・ソト
内野手 在籍期間:2018~23(ロッテ24~) プエルトリコ/1989年2月28日生/右投右打 大活躍 期待以上 WBC2023 |
【NPB】843試合 打率.263 安打785 本塁打182 OPS.828
(DeNA) 711試合 打率.262 安打653 本塁打161 OPS.837 (ロッテ) 132試合 打率.269 安打132 本塁打21 OPS.780 【MLB】34試合 打率.071 安打3 本塁打0 OPS.186 ============ 選手紹介 ============ 来日1年目から2年連続でホームラン王に輝いた元DeNA戦士。チームのために真面目に働いてくれる優良スラッガーであり、入団から6年連続2ケタホームランをマークした。 入団6年目に自身ワーストの打率.234をたたいてしまい、またシーズン終了後には左足を手術し、自由契約。直後に千葉ロッテへの移籍が決まった。プエルトリコ出身で、2023年のWBCに出場している。 Embed from Getty Images |
110 スターリン・コルデロ (登録名:スターリン) 投手 在籍期間:2021~23 ドミニカ共和国/1998年7月21日生/右投右打 |
【NPB】1軍出場なし
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ 身長が2メートルを超え、150km/hを優に超える球威溢れるファストボールを持っていた右投げ投手。カタログスペックは申し分なかったが、渡米前のドミニカ時代から壊滅的なコントロールに苦しんでいた。 2021年に入団したときはレミー・コルデロがいたため「スターリン」が登録名になった。来日後もコントロール難は変わらず、2021年9月には松本隆之介と2人合わせて初回17失点を喫し、イースタンリーグのワースト記録を作ってしまった。 |
45 ロバート・グセルマン (登録名:ガゼルマン) 投手 在籍期間:2022~23 アメリカ合衆国/1993年7月18日生/右投右打 元有望株 |
【NPB】17試合4勝6敗0S 防御率4.02 BB/9 4.1 K/9 5.8
【MLB】184試合20勝18敗15S 防御率4.60 BB/9 3.1 K/9 7.1 ============ 選手紹介 ============ 高校時代はバスケットと野球の両方でスタープレイヤーだった先発投手。ニューヨーク・メッツの元有望株であり、23歳にしてメジャー昇格。初登板を初勝利で飾る上々のデビューだったが、2019年を境に呪われているかのように大ケガに見舞われ続けた。 2022年7月にベイスターズと契約。8月という微妙な時期に来日した。4試合登板したうち先発した3登板は完璧な内容だったため契約が延長されたが、2年目はスタッツが軒並み悪化。味方のエラーに集中力を切らす場面が散見された。 投球スタイルは150km/h台の高速シンカーを中心とするピッチング。日本での登録名ガゼルマンがキン肉マンに出てくるキャラと同名だった関係で、「キン肉マンGo Fight!」を登場曲に使っていた。成績はアタリ外国人とは言い難かったが、横浜市内の病気を抱える子供たちの施設を訪問したり、人格者であったためあまり悪く言われない。 Embed from Getty Images |
42 トレイ・アンバギー
外野手 在籍期間:2023 アメリカ合衆国/1994年10月24日生/右投右打 |
【NPB】4試合 打率.125 安打1 本塁打0 OPS.250
【MLB】2試合 打率.000 安打0 本塁打0 OPS.000 ============ 選手紹介 ============ アメリカでは3A暮らしが長かった元ヤンキースの長距離ヒッター。2021年にメジャーデビューを果たしたものの、4打席で無安打・2三振と結果を残せず、すぐにマイナー降格。その後はメジャーに呼ばれることなく、日本球界挑戦を決断した。 2023年、DeNAベイスターズに加入。故障がちのオースティンと出場機会を争う立場だったが、この年のベイスターズは外国人選手層が厚く、開幕一軍入りを逃す。二軍で打率1割台と苦しんだうえ、シーズン途中にバウアーが入団してきてしまい、一軍出場はシーズン終盤の消化試合のみに限られた。それでも、短い出場時間の中で肩の強さと堅実な守備力を発揮し、印象を残した。 2024年にSNS上で現役引退を表明した際には、ベイスターズ時代について感謝の言葉を述べた。日本のファンの間に広まったメッセージは「MLBでプレーする夢が叶えられたこと、東京のような大都市でプレーできたことを一生忘れません」。国土の広いアメリカからすれば、横浜を含む関東一帯が「トウキョウ」に見えるのかもしれない。 |
45 マイケル・ピープルズ
投手 在籍期間:2020~22 アメリカ合衆国/1991年9月5日生/右投右打 |
【NPB】31試合5勝8敗0S 防御率4.91 BB/9 2.9 K/9 7.6
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ 一部のファンから親しみを込めて「ピーポくん」と呼ばれていた元マイナーリーガー。メジャー経験は無く、キャリアの最高位は3Aだった。 DeNAには3年間在籍し、成績面では大きな貢献を果たせなかったものの、温厚で気配りのできる人柄から、彼を悪く言うファンはほとんどいなかった。2024年にはベイスターズを退団して2年経つにもかかわらず、ジョフレック・ディアスが一軍デビューを果たした際に、SNSで真っ先にお祝いのメッセージを投稿。変わらず善人だった。 |
42 フェルナンド・ロメロ
投手 在籍期間:2021~22 ドミニカ共和国/1994年12月24日生/右投右打 元有望株 |
【NPB】37試合11勝11敗0S 防御率4.01 BB/9 3.4 K/9 5.1
【MLB】26試合3勝4敗0S 防御率5.17 BB/9 3.9 K/9 8.1 ============ 選手紹介 ============ 2018年プレシーズンのMLB公式有望株ランキング68位にランクイン。開幕後にメジャーデビューを果たし、2年間で計26試合に登板した。2020年もMLB定着を目指そうとドミニカ共和国からアメリカに戻ろうとした矢先、マイアミの税関でマリファナ所持が見つかってしまい、ビザが発給されなかった。スプリングトレーニングに参加できないばかりか、アメリカに入国できないままレギュラーシーズンが終わってしまい、オフにFAとなっていた。 失意のロメロは日本での活躍を誓って2021年に来日。最初の頃は牽制やクイックといった投球以外のプレーが問題となり、二軍落ちを経験。しかし、ファームで新球のカットボールを習得したりコントロールを改善したりと成長がみられ、一軍再昇格後は先発で好成績を残した。 年俸1億2000万円と大幅昇給して迎えた2年目は、中日戦以外ではKOが続き、シーズン途中にリリーフに降格。そのままオフに自由契約となった。先発でも150km/h超を計時する威力あるファストボールを持っていたが、細かい制球力やプレート周りの弱点を日本の打者たちに突かれてしまった。 |
49 ブルックス・クリスキー
投手 在籍期間:2022(西武23) アメリカ合衆国/1994年2月3日生/右投右打 |
【NPB】32試合1勝1敗8S 防御率2.31 BB/9 5.7 K/9 10.0
(DeNA) 18試合1勝1敗1S 防御率2.57 BB/9 5.6 K/9 11.1 (西武) 14試合0勝0敗7S 防御率1.93 BB/9 5.8 K/9 8.4 【MLB】20試合2勝1敗0S 防御率11.22 BB/9 7.1 K/9 10.4 ============ 選手紹介 ============ 来日する前年にMLB歴代ワーストタイの1イニング4暴投を犯し、さらには逆転を許して負け投手になってしまった。日本でも野球関連のネット記事に報じられたニュースだったため、ベイスターズファンからの期待値は微妙だった。 ベイスターズでは好調時は150km/h台後半を計時するファストボールを投げたが、夏場にヒジを痛めて戦線離脱。ファームで調整中に腰まで痛めてしまい、戦列復帰することなく契約が終わった。 DeNAを退団した助っ人たちが古巣への愛着を持ち続けてくれるケースは多く見られるが、クリスキーもその一人だ。2024年にベイスターズがクライマックスシリーズ進出を決めた際には、古巣の快進撃を願って2年ぶりにSNS(X)を更新。そのXのアイコンもベイスターズ在籍時に撮ったものだった。ちなみに、彼の名前は伝説的な三塁手ブルックス・ロビンソンにちなんで名付けられている。 Embed from Getty Images |
107 レミー・コルデロ
投手 在籍期間:2019~21 ドミニカ共和国/1997年12月18日生/左投左打 |
【NPB】1軍出場なし
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ あとから入ってきたスターリンの制球難は酷かったが、こっちのコルデロも負けず劣らず荒れていた。17歳のときにドミニカン・サマーリーグで外野手としてプレーを始めたが、途中で投手に転向。しかし、11回2/3を投げて23与四死球・6暴投を記録し、転向1年目にしてチームをクビになってしまった。 2018年オフにDeNAが主催したトライアウトに合格し、2019年に育成選手となった。ただ日本でもコントロール難は克服することはできず、2021年シーズン終了後の育成契約満了とともに退団。その後はBCリーグ神奈川に入団したが、1年足らずで日本を離れることとなった。 |
108 フランディー・デラロサ
内野手 在籍期間:2020~21 ドミニカ共和国/1996年1月24日生/右投両打 |
【NPB】1軍出場なし
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ トニ・ブランコ以来の将来の主砲候補として期待され、2020年に育成契約で加入したドミニカ人選手。持ち前のパワーを活かしたバッティングが注目されたが、試合では打球角度が上がらなかった。 湘南(二軍)では手薄な一塁手として故障なく出場していたものの、2年連続でOPSが5割台に留まり、ポテンシャルを発揮できなかった。また、NPBの規定により26歳以上の外国人育成選手はシーズン途中の支配下登録が認められないという制約も影響し、2021年シーズン終了後に契約解除となった。 ちなみにシカゴ・カブス傘下のシングルA-時代、スペンサー・パットンと交換トレードされた経験を持つ。DeNAでは2020年に在籍期間が重なっている。 |
049→49 ケビン・シャッケルフォード
投手 在籍期間:2021 アメリカ合衆国/1989年4月7日生/右投右打 |
【NPB】32試合1勝0敗1S 防御率5.17 BB/9 4.6 K/9 9.8
【MLB】31試合0勝1敗0S 防御率5.35 BB/9 4 K/9 10.5 ============ 選手紹介 ============ 当初は育成契約で入団した右のリリーフ投手。入団時点では育成選手のままだったが、新型コロナによる特例措置に助けられ支配下登録が叶った。ただ、一軍では活躍できず、イースタンでも名前が長すぎて電光掲示板に載せられないハプニングがあったこと以外は印象が薄かった。 来日前に「イチローから三振を奪った」という触れ込みがあったが、それはレギュラーシーズンではなく春季キャンプでの出来事。実際に公式戦での対戦経験はなかった。 |
◇2020年までに在籍した外国人選手 |
2 ホセ・ロペス
内野手 在籍期間:2015~20(巨人13~14) ベネズエラ/1983年11月24日生/右投右打 元有望株 大活躍 優良助っ人 WBC2009 |
【NPB】993試合 打率.274 安打1001 本塁打198 OPS.806
(巨人) 255試合 打率.275 安打221 本塁打40 OPS.795 (DeNA) 738試合 打率.273 安打780 本塁打158 OPS.809 【MLB】1036試合 打率.262 安打1005 本塁打92 OPS.688 ============ 選手紹介 ============ ベイスターズが獲ってくる助っ人外国人の特徴の一つに、他球団でそこそこやっていた選手を移籍させるケースが多い。そして大概は前チームより成績を下げるのがお決まりだったが、ロペスに限っては久々の?下手したら初めての成功例となった。 ベネズエラでサッカー少年として育ったロペスは、中学生の頃から本格的に野球に打ち込むようになった。16歳のときに国際FAによってシアトル・マリナーズと契約。この頃は遊撃手メインに育成され、極めて順調にマイナーの階級を駆け上がった。2004年にメジャーデビュー後、2006年に本格的に二塁手のレギュラーに定着。イチローの後を打ち、5年間レギュラーとして出場を続けた。 2011年以降は打撃不振によって移籍を繰り返し、2013~14年に読売ジャイアンツでプレーしていた。 横浜スタジアムでの打撃成績が良かったが大きな決め手となり、2014年の年末にDeNAと契約。移籍1年目の春先から良い場面で打ち続け、筒香の離脱時には4番も代行するほどあっという間に信頼を得た。2017年には来日1年目以来の打率3割に、初のタイトルとなる打点王(105打点)を獲得。2020年まで6年間在籍したが、将来は指導者になるのにふさわしいと思えるような人物だった。 ベイスターズで同僚となった筒香とは縁があり、2020年のレギュラーシーズン最終盤、阪神戦で放ったソロホームランが日本・メジャー両方で1000安打達成のメモリアルアーチとなった。この記録はイチロー、松井秀喜に次ぐ3人目の快挙であった。試合後に行われたセレモニーではアメリカで奮闘中の筒香からビデオメッセージが届き、涙を流した。同年を最後に退団となったが、チャモさんと呼ばれ親しまれた彼に、コーチとして戻ってきてほしいと願うファンが今でもたくさんいる。 Embed from Getty Images |
53 スペンサー・パットン
投手 在籍期間:2017~20 アメリカ合衆国/1988年2月20日生/右投右打 優良助っ人 問題児 |
【NPB】219試合12勝9敗7S 防御率3.68 BB/9 3.7 K/9 10.6
【MLB】113試合5勝4敗2S 防御率5.11 BB/9 4 K/9 9.1 ============ 選手紹介 ============ 2017年から4年間で219試合に登板した助っ人リリーフ。来日1年目からフル回転して日本シリーズ進出に貢献し、ブルペン陣の柱として活躍した。ファンの間ではプレーだけでなく、2019年に起きた「冷蔵庫事件」の印象が強いかもしれない。 同年8月3日、ハマスタでの巨人戦の8回に登板したものの、1アウトも取れず2失点で降板。怒りを抑えきれなかったパットンは、ダグアウト裏にあった冷蔵庫を右、左、右と3発殴打し、右手の指を骨折。この愚行によって残りのシーズンを棒に振ったことで、球団から制裁金500万円を課せられた。 この冷蔵庫事件からちょうど1年後の2020年8月27日、ハマスタでの広島戦で一打逆転のピンチをしのぐ好救援を見せ、自身初のお立ち台に上がった。この日は奇しくも家電量販店のノジマがスポンサードしていた試合で、ヒーロー賞として冷蔵庫が用意されていた。偶然にしては出来過ぎと思えるほどの珍事に、ハマスタは大いに沸いた。 2024年、パットンはメキシカンリーグで防御率2点台と安定した成績を収める一方、プレミア12のアメリカ代表として再来日。大会では打ち込まれたが、牧秀悟とは初対面にもかかわらず一緒にデスターシャをやり、深い横浜愛を示した。また同年には女優の高月彩良がDeNAファンであり、パットンを応援していたことがインタビューで語られたことが話題に。彼女の発言にファンは歓喜するとともに、「もっと売れていきたいなら声高に言わない方が…」と心配する声も上がった。 Embed from Getty Images |
42 エディソン・バリオス
投手 在籍期間:2018~19(SB11~16) ベネズエラ/1988年10月11日生/右投右打 |
【NPB】63試合5勝12敗1S 防御率3.96 BB/9 3.4 K/9 7.6
(SB) 46試合2勝5敗1S 防御率4.43 BB/9 4.0 K/9 8.7 (DeNA) 17試合3勝7敗0S 防御率3.54 BB/9 2.9 K/9 6.6 【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ ソフトバンク在籍時に17試合連続ホールドの日本記録を樹立した実績を持つリリーフ右腕。DeNA移籍後は先発としても起用された。2018年は終盤にチームに貢献する場面もあったが、翌年はシーズンを通じて不振が続き、2019年限りで退団した。 DeNAでの立ち位置は一軍外国人枠の当落線上である4~5番手だった。助っ人の保険的な活躍も期待されていたものの、2019年のスペンサー・パットンの離脱時にはバリオスも調子を崩しており、期待された役割を果たすことができなかった。なお、パットンの離脱理由は冷蔵庫を殴ったあの件であった。 |
97 サミー・ソリス
投手 在籍期間:2019 アメリカ合衆国/1988年8月10日生/左投右打 |
【NPB】4試合0勝0敗0S 防御率2.08 BB/9 4.2 K/9 4.2
【MLB】141試合5勝7敗1S 防御率4.51 BB/9 3.9 K/9 9.6 ============ 選手紹介 ============ ワシントン・ナショナルズで4年間に141試合登板し、一時はセットアッパーを務めた実績を持つリリーフ左腕。2018年に肩を負傷した後、万全の状態ではなかったものの、キャリアを途絶えさせたくない思いから日本球界への挑戦を決断し、DeNAに入団した。 来日初登板となった巨人戦では最初のバッター、山本泰寛にキャリア2本目となるホームランを浴びる不本意なスタートとなった。このソロホームラン以外に失点は許さなかったが、4試合投げたところで左肩が限界に達し、シーズン途中で帰国。短期間の在籍に終わった。 その後は国際大会で声がかかるまでに回復。2021年に東京オリンピックのメキシコ代表に内定したものの、新型コロナウイルス感染により来日が叶わず無念の辞退。2024年のプレミア12で再びメキシコ代表に選出され予定通り日本の地を踏んだ。その際、元助っ人と紹介されていたが、DeNA時代の登板がわずか4試合だったこともあり、ベイスターズファンの間でさえ「誰?」という反応も少なくなかった。 Embed from Getty Images |
56 ジョー・ウィーランド
投手 在籍期間:2017~18 アメリカ合衆国/1990年1月21日生/右投右打 元有望株 期待以上 |
【NPB】37試合14勝11敗0S 防御率3.80 BB/9 2.7 K/9 7.8
【MLB】12試合1勝6敗0S 防御率6.32 BB/9 3.2 K/9 6.7 ============ 選手紹介 ============ マイナー時代から打撃の良い先発投手として知られていたアメリカ人投手。2017年に来日し、初年度から10勝2敗・防御率2.98という好成績を挙げ、チームのクライマックスシリーズ進出に大きく貢献した。投手としての活躍に加え、在籍した2年間で4本塁打を放つなど打者顔負けのパフォーマンスを見せ、控え野手よりもよほど存在感を発揮していた。 ウィーランドの打撃はファンだけでなくテレビ中継でも注目された。とある試合でタイムリーを打った際、某実況が口走った「GWウィークはディズニーランドよりウィーランド!」との寒いフレーズは、一部ファンの間で語り草となっている。 |
42 エリアン・エレラ (登録名:エリアン) 内野手 在籍期間:2016~17 ドミニカ共和国/1985年2月1日生/右投両打 |
【NPB】104試合 打率.224 安打70 本塁打6 OPS.606
【MLB】223試合 打率.253 安打148 本塁打8 OPS.666 ============ 選手紹介 ============ 二塁手、遊撃手、三塁手と外野3ポジションをこなすユーティリティ性がウリだった便利屋選手。メジャー通算223試合。1試合5打数5安打や3試合連続ホームランといった目立つ記録を残したが、フライを追いかけて味方選手と衝突し、この時に負ったケガの影響でメジャー定着を果たすことができなかった。 2016年のベイスターズはロマックが早々に期待を裏切っていたため、シーズン途中にエレラを急遽獲得。チームにはヨスラン・エレラが在籍していたため、登録名は「エリアン」になった。1年目の打撃成績は打率.218・5本塁打・OPS.597に終わったが、大事な場面で大仕事をするイメージがあり、契約延長が決まった。2年目は”ハマのプーさん”と呼ばれ始めた宮崎がサードに固定され、またシーズン中にエスコバーがトレード移籍してきた影響で二軍が定位置になってしまった。 対戦相手別では、なぜかスワローズ相手に異常な勝負強さを見せた。1年目に記録した33打点のうち21打点を、さらに本塁打5本はすべてスワローズ戦で挙げたものだった。グラウンド外では、菊地亜美に似ていると話題になっていた。 |
49 フィル・クライン
投手 在籍期間:2017 アメリカ合衆国/1989年4月30日生/右投右打 |
【NPB】7試合2勝3敗0S 防御率4.75 BB/9 5.5 K/9 6.8
【MLB】40試合2勝3敗0S 防御率5.50 BB/9 4.7 K/9 8.7 ============ 選手紹介 ============ メジャーでの実績こそ平凡だったが、身長2メートル超のスケールのデカさに期待を寄せられ、ベイスターズは年俸1億5000万円と奮発して獲得した。 しかし、日本ではオープン戦の段階から制球難を露呈し、首脳陣やファンに不安を与える立ち上がりとなった。シーズン開幕後はコントロールの不安定さだけでなくフィールディングの悪さも目立ち、登板機会はわずか7試合にとどまった。入団にあたって熱心に誘ってくれた高田繁GMの顔に泥を塗る結果となった。 |
98 アウディ・シリアコ
内野手 在籍期間:2017 ドミニカ共和国/1987年6月16日生/右投右打 |
【NPB】12試合 打率.074 安打2 本塁打0 OPS.218
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ メジャー通算272試合出場を誇る兄を持つ元三塁手。弟のアウディは7シーズンも3Aでプレーしながら、メジャーに呼ばれることはなかった。 2016年、BCリーグの石川ミリオンスターズで好成績を収めた後、DeNAの入団テストに合格して契約。しかし、1軍ではバットコントロールが通用せず苦戦を強いられた。 ベイスターズ退団後はアメリカの独立リーグを中心にプレーを続け、2019年には兄のペドロと同じチームでプレーする機会もあった。 |
49 ギジェルモ・モスコーソ
投手 在籍期間:2014~16 ベネズエラ/1983年11月14日生/右投右打 WBC2017 |
【NPB】52試合17勝22敗0S 防御率4.27 BB/9 2.9 K/9 6.8
【MLB】70試合13勝14敗0S 防御率4.28 BB/9 3.5 K/9 6.7 ============ 選手紹介 ============ ファンには今でも良いイメージを持たれている、ベネズエラ出身の先発右腕。弱かった時代のベイスターズの先発ローテーションを支え、辛抱強く投げてくれた。 2024年シーズン、新助っ人アンドレ・ジャクソンが規定投球回の143イニングに到達。これにより、ベイスターズの外国人投手として規定投球回をクリアしたのは、2014年のモスコーソ以来、実に10年ぶりとなった。この記録によってモスコーソの名前が再び注目され、ファンの間で懐かしむ声が広がった。 Embed from Getty Images |
53 ヨスラン・エレラ
投手 在籍期間:2015~16 キューバ/1981年4月28日生/右投右打 |
【NPB】52試合5勝4敗0S 防御率2.96 BB/9 2.6 K/9 9.2
【MLB】25試合2勝2敗0S 防御率6.43 BB/9 5.4 K/9 5.9 ============ 選手紹介 ============ キューバ出身の元有望株投手。2005年に亡命に成功すると、入団したピッツバーグ・パイレーツ内の上位のプロスペクトとして期待された。2008年にメジャーデビューしたがそれ以降出場機会に恵まれず、年単位で野球から離れた時期を経て、2014年に6年ぶりとなるメジャー復帰を果たした。 ベイスターズ初年度の2015年、当初は2軍スタートの予定だったが、グリエルが来日しない騒動が起きたことでエレラの1軍登録が決まった。とある試合でアンパイアからイジメのように1イニング3ボークを取られる出来事があったが、シーズン全体では山﨑康晃に繋ぐセットアップマンとして好成績を残した。 ただ、1年目の終盤に右肩の違和感を訴えると、思いのほか重症であることが判明。2016年も契約延長はしたものの翌シーズンも肩の不調を引きずり退団となった。 そこそこ活躍してくれたものの、酷使の影響もあって結果的に故障に繋がってしまったことは、ベイスターズファン目線では今でも申し訳なく思う助っ人外国人だった。 |
67 ザック・ペトリック
投手 在籍期間:2016 アメリカ合衆国/1989年7月29日生/右投右打 |
【NPB】15試合3勝2敗0S 防御率5.51 BB/9 2.3 K/9 4.2
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ 多彩な変化球を操るゴロ打たせ系の技巧派右腕。投手にしてはバッティングが良いため、球の遅いウィーランドと揶揄されていた。 DeNAを退団後は韓国のサムスン・ライオンズと契約。とある試合で2回0/3を14失点も取られる歴史的な大炎上をしてしまい、一部のベイスターズファンの間で話題になった。 |
69 マイク・ザガースキー
投手 在籍期間:2016(広島15) アメリカ合衆国/1983年1月27日生/左投左打 |
【NPB】51試合3勝1敗0S 防御率4.15 BB/9 4.9 K/9 9.4
(広島) 19試合0勝0敗0S 防御率2.40 BB/9 4.2 K/9 9.6 (DeNA) 32試合3勝1敗0S 防御率4.96 BB/9 5.2 K/9 9.4 【MLB】91試合1勝1敗0S 防御率7.78 BB/9 5.7 K/9 9.1 ============ 選手紹介 ============ 前年に広島東洋カープに在籍していた左腕リリーフ投手。カープでは19試合に登板し、防御率2.40と安定した成績を残していたものの、故障グセと外国人枠の影響で戦力外となっていた。 ベイスターズ移籍後は故障離脱こそなかったものの、投球内容は振るわず防御率は4.96と大幅に悪化。さらに前任投手が残したランナーをしばしば返してしまうなど、信頼を得ることはできなかった。それでもリリーフとして挙げた3勝はすべてジャイアンツ戦で記録するという、不思議な結果を残した。 ⇒広島東洋カープ(2000年以降)参照 |
97 マイク・ブロードウェイ
投手 在籍期間:2016 アメリカ合衆国/1987年3月30日生/右投右打 160km/h |
【NPB】5試合0勝0敗0S 防御率4.50 BB/9 3.0 K/9 4.5
【MLB】25試合0勝2敗0S 防御率6.75 BB/9 3.2 K/9 6.8 ============ 選手紹介 ============ 2016年のシーズン中、リリーフ陣の強化を目指して緊急補強した助っ人右腕。自称最速160kmを投げられると豪語したことや、「ブロードウェイ」と「劇場」が掛かった名前の響きが話題性を呼んだ。 しかし、来日後のパフォーマンスは思うようにいかなかった。8月に1軍に昇格し、注目されたNPBデビューとなったスワローズ戦。160km/hのストレートへの期待が高まる中、バレンティンに投じた初球はレフトスタンドへと消える一発に。その後も失点を重ね、デビュー戦は5失点の大変苦しい結果に終わった。翌日のスポーツ紙に「”初公演”で5失点」といった見出しが踊り、厳しい評価を受けることになった。 初登板以降は好投を見せる試合もあったが、総じて安定感を欠き、5試合目を投げ終わったところでイースタンに降格。シーズン終了後にチームを去ることとなった。 Embed from Getty Images |
52 ジェイミー・ロマック
内野手 在籍期間:2016 カナダ/1985年9月30日生/右投右打 WBC2017 |
【NPB】30試合 打率.113 安打8 本塁打0 OPS.374
【MLB】27試合 打率.167 安打6 本塁打0 OPS.481 ============ 選手紹介 ============ 来日前年に3Aで100打点を記録していた助っ人内野手。2016年にサードのレギュラー定着を期待されて入団したが、内野守備は練習段階から不安を露呈し、急遽外野での起用に切り替えられた。開幕戦でヒットを放つもその後は低迷。打率が1割を切る状況でも主力の故障により起用され続けたが、4月下旬についに二軍落ち。それ以降に昇格の機会はあったものの、最後まで低迷したままシーズン終了後に解雇された。 ロマックの打撃成績は打率.113。長打は二塁打1本のみ、タイムリーは0本、三振率42.2%と厳しい内容であった。ファンからは「投手が自援護する方が打つ」と揶揄される始末で、実際に翌年加入した投手ジョー・ウィーランドが打率.229・3本塁打・12打点を記録し、比較されてしまった。守備面でもミスが目立ち、攻守両面で期待を大きく裏切った。 DeNAを退団後、2017年のWBCにカナダ代表として出場。日本時代には見られなかった好守を披露し、注目を集めた。その後、韓国プロ野球(KBO)のSKワイバーンズと契約。韓国では”三振かホームランか”の典型的なパワーヒッターとして存在感を示し、2018年に31本塁打を記録。以降中軸打者として毎年30~40本塁打を放ち、2021年シーズン終了後に現役を引退した。 SK入団時には日本球界やDeNAに対する否定的な発言が見られた。それが日本のネットで反発を招いたのか、ロマックの韓国での活躍は「KBOで成功した打者はNPBでは活躍できない」という説の根拠として定着するようになった。 |
◇2015年までに在籍した外国人選手 |
52 アーロム・バルディリス
内野手 在籍期間:2014~15(阪神08~09,オリ10~13) ベネズエラ/1983年1月5日生/右投右打 |
【NPB】918試合 打率.268 安打793 本塁打93 OPS.764
(阪神) 100試合 打率.205 安打33 本塁打4 OPS.638 (オリ) 540試合 打率.279 安打525 本塁打59 OPS.783 (DeNA) 278試合 打率.257 安打235 本塁打30 OPS.746 【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ 2013年シーズン終了後にオリックスから移籍した三塁手。2年契約の好条件でDeNAに加入したが、チーム事情を考えると疑問の残る補強だった。 サードには既に中村紀洋が在籍し、さらに後藤武敏や若手の筒香嘉智も控える中、ポジションが競合する状況だった。また、バルディリスはショートを守れず守備力には不安があり、前年に在籍していたモーガンのような外野手の方が補強ポイントに適していた。特に、当時はまだ筒香をサードで育成すべきとの意見も根強く、年俸面を含めてチーム事情にマッチしない選手補強だった。 DeNAでは2年間にわたり安定した成績を残し、いずれの年も139試合に出場して2桁本塁打・打率2割5分台を記録。一定の貢献をしたと言える。しかし、DeNA退団後にサムスン・ライオンズ(韓国)に移籍した後、日本でのプレーについて「横浜ではコーチがフォームを無理に矯正しようとして調子を狂わされた」と発言。この発言は、韓国では日本を批判するとウケが良い背景も影響していた可能性がある。 総じて、バルディリスは安定した打撃力を持つ選手であり、阪神やオリックスの両関西球団にいたことで在阪ファンからの人気が高い一方、DeNAのファンからは獲得当時のチーム状況や退団後の発言に嫌悪感を示される選手である。 ⇒阪神タイガース(2000年以降)参照 |
10 ユリエスキー・グリエル
内野手 在籍期間:2014~15 キューバ/1984年6月9日生/右投右打 問題児 WBC2006 WBC2009 WBC2013 |
【NPB】62試合 打率.305 安打73 本塁打11 OPS.884
【MLB】927試合 打率.280 安打952 本塁打98 OPS.764 ============ 選手紹介 ============ 「ユリ・グリエル」の名前で呼ばれている強打の一塁手。キューバがまだ強かった頃の代表チームでクリーンナップを打っていた。2014年、キューバ政府よりDeNAに派遣される形で来日。NPBでの1年目は好成績を残し、持ち前の打撃力でチームを牽引した。 しかし翌年、弟のルルデス・グリエルJr.とともに「怪我」を理由に来日を拒否。DeNA側は診断書の提出を求めたが、代理人やキューバ政府からの明確な回答はなく、シーズン開幕後に契約解除が発表された。 その後、2016年にカリビアンシリーズ開催中のドミニカ共和国から弟とともにハイチへ亡命。これによりDeNA退団の背景には、かねてから噂されていた亡命計画があったことが確実になった。 メジャー移籍後は2017年にアストロズでワールドシリーズ優勝を経験するも、ダルビッシュ有からホームランを打った際にアジア人を侮辱するパフォーマンスをしたことが問題視され、MLBから処分を受けた。一方でダルビッシュ本人は「これを糧にして学んでほしい」と寛容な姿勢を示し、グリエルも謝罪を表明。 メジャーリーガーとして活躍する一方で、SNSで横浜愛を語ったり、日本メディアの取材に笑顔で応じる姿も見られた。そのため「チーム愛は実際にあったのでは?」と再評価される面もあるが、移籍時の騒動が日本でのキューバ人選手に対する評価に暗い影を落としているのも事実である。 Embed from Getty Images |
42 デュアン・ビロウ
投手 在籍期間:2015 アメリカ合衆国/1985年11月15日生/左投左打 |
【NPB】1試合0勝1敗0S 防御率33.75 BB/9 33.8 K/9 0.0
【MLB】43試合2勝4敗0S 防御率4.27 BB/9 2.4 K/9 5.2 ============ 選手紹介 ============ メジャー通算43試合に登板したサウスポー。当時の巨人打線には左の強打者が揃っており、中畑監督は対巨人対策として左腕投手の補強を熱望。その要望を受け、フロント主導で獲得されたのがビロウだった。 2015年、シーズン終盤の9月に一軍登録されるも、先発予定の試合が2度続けて雨天中止。ようやく晴れたデビュー戦では、スワローズを相手に1回1/3を投げて5四球・5失点でKO。結果を残せないまま二軍へ降格し、シーズン終了後に戦力外となった。 それから約10年後の2023年、とあるスポーツ系バラエティ番組に中畑清氏が出演。巨人対策として緊急補強した外国人左腕が、巨人戦に投げる前に打ち込まれて使い物にならなかったというエピソードを語った。ダウンタウンの浜田からその選手は誰だったのかを尋ねられると、中畑氏は「名前も忘れた」とコメント。ビロウの存在は記憶にも残らないものとなってしまった。 |
91 ルルデス・グリエルJr.
内野手 在籍期間:2015 キューバ/1993年10月10日生/右投右打 問題児 |
【NPB】1軍出場なし
【MLB】746試合 打率.279 安打778 本塁打110 OPS.784 ============ 選手紹介 ============ 日本球界では1試合も出場しなかったが、後にメジャーでスター選手として名を馳せたキューバ人外野手。2014年から在籍していた兄のユリエスキーと契約延長する際に弟もセットで契約されたが、2015年にまさかの兄弟揃って来日拒否。ルルデスの方は左手首の治療を理由に挙げたものの、診断書が提出されなかったため真相は不明。結局、ルルデスはNPB史上3人目の制限選手に指定され、DeNAでプレーすることなく戦力外となった。 その後、亡命する過程で一時的に行方不明になっていたが、2016年にトロント・ブルージェイズと7年総額2200万ドルの大型契約を結び、注目を集めた。2022年オフにはトレードでアリゾナ・ダイヤモンドバックスへ移籍し、現在もメジャーで活躍中。 |
53→118→59 陳冠宇(チェン・グァンユウ)
投手 在籍期間:2011~14(ロッテ15~20) 台湾/1990年10月29日生/左投左打 WBC2017 WBC2023 |
【NPB】136試合11勝11敗0S 防御率3.58 BB/9 4.2 K/9 7.2
(DeNA) 1試合0勝0敗0S 防御率11.57 BB/9 7.7 K/9 11.6 (ロッテ) 135試合11勝11敗0S 防御率3.51 BB/9 4.2 K/9 7.2 【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ 千葉ロッテマリーンズで6年間活躍した台湾人投手だが、その前は4年もベイスターズに在籍していたことを覚えているだろうか?2011年に来日後、肘の故障により育成選手へ降格するも、リハビリを経て支配下登録を勝ち取るまでに復活した。しかし、2014年の一軍デビュー戦では味方の守備に足を引っ張られ、3回持たずにKO。その試合以後は1度も一軍登板の機会は訪れず、シーズン終了後に戦力外通告を受けた。 翌年、千葉ロッテの入団テストに合格。春季キャンプで首脳陣から高評価を受け、開幕2戦目の先発投手に大抜擢される。その後は先発とリリーフ両方で起用され、2020年までチームに貢献した。 ⇒千葉ロッテマリーンズ(2000年以降)参照 Embed from Getty Images |
61 エンゼルベルト・ソト
投手 在籍期間:2013~14(中日11~12) ベネズエラ/1982年8月20日生/左投左打 優良助っ人 |
【NPB】74試合11勝6敗1S 防御率3.11 BB/9 3.2 K/9 6.4
(中日) 40試合9勝2敗0S 防御率1.92 BB/9 2.6 K/9 6.9 (DeNA) 34試合2勝4敗1S 防御率6.20 BB/9 4.7 K/9 5.4 【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ 2012年オフ、中日ドラゴンズから移籍した3人の外国人選手の1人。ドラゴンズ時代は巨人相手に好投しており、ベイスターズ加入1年目は巨人戦に先発起用されたが、2度の登板とも大量失点を喫して結果を残せなかった。 2年目からはリリーフに専念。16試合連続無失点を記録するなど安定感を発揮し、次第に勝ち試合での起用が増加。夏場にはセーブシチュエーションでも登板するなど、チームのブルペンを支える重要な役割を担った。しかし、外国人枠の競争や左腕投手の補強により退団が決定。 モスコーソやバルディリス、グリエルといった同僚助っ人たちがこぞって活躍した一方で、一緒に移籍したブランコとソーサとは一軍出場枠を争う形になってしまった。謙虚な人柄はファンから好感を持たれていたが、惜しまれながら退団した。 ⇒中日ドラゴンズ(2000年以降)参照 |
53 ホルヘ・ソーサ
投手 在籍期間:2013~14(中日12) ドミニカ共和国/1977年4月28日生/右投右打 WBC2006 |
【NPB】135試合8勝8敗26S 防御率2.32 BB/9 3.3 K/9 7.2
(中日) 53試合5勝1敗4S 防御率1.85 BB/9 2.7 K/9 7.1 (DeNA) 82試合3勝7敗22S 防御率2.68 BB/9 3.8 K/9 7.3 【MLB】294試合44勝53敗7S 防御率4.72 BB/9 4.1 K/9 5.7 ============ 選手紹介 ============ ブランコ、ソトとともにドラゴンズから移籍した元メジャーリーガー。ベイスターズ1年目は開幕からブルペン陣の一角として登板し、不調の山口俊に替わってクローザーを任された。特に夏場以降は安定感が増し、チームの最下位脱出に大きく貢献した。 しかし、移籍2年目は春季キャンプから明らかに調整不足の状態で開幕を迎え、生命線である球速が低下。自己管理の甘さから中畑監督に悪印象を与え、二軍に降格する場面もあった。最終的に防御率は1年目の1.79から4.94へと悪化し、契約延長には至らなかった。 ⇒中日ドラゴンズ(2000年以降)参照 Embed from Getty Images |
115 ケビン・モスカテル
捕手 在籍期間:2013~14 ベネズエラ/1991年5月16日生/右投右打 |
【NPB】1軍出場なし
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ セントルイス・カージナルス傘下のマイナー下部でプレーしていたベネズエラ人捕手。マイナーでの最高位は1A+だった。2013年に横浜DeNAベイスターズの入団テストを受け、育成選手として契約を結んだ。当時22歳での日本球界挑戦は、珍しい外国人捕手としてファンからの期待を集めた。 DeNA入団後はチームメイトやスタッフと良好な関係を築いた。日本の文化に溶け込む努力を惜しまず、公文に通って日本語を勉強していたことが話題に。二軍の横須賀スタジアムでは、試合後にファンからサインを求められることが多く、嫌な顔ひとつせず快く応じる姿が頻繁に目撃された。 しかし、打撃面では苦戦を強いられ、二軍での打率は1割を切る厳しい成績に。守備面では一定の評価を得ていたものの、プロとして厳しい結果が残った。 来日2年目となった2014年のシーズン終盤、23歳の若さで引退を決意。一軍出場ゼロの育成選手ながら、最後はチームメイト達から胴上げで送られ、日本を後にした。 |
42 トニ・ブランコ
内野手 在籍期間:2013~14(中日09~12,オリ15~16) ドミニカ共和国/1980年11月10日生/右投右打 元有望株 期待以上 |
【NPB】750試合 打率.272 安打725 本塁打181 OPS.868
(中日) 452試合 打率.262 安打427 本塁打111 OPS.852 (DeNA) 219試合 打率.314 安打249 本塁打58 OPS.962 (オリ) 79試合 打率.202 安打49 本塁打12 OPS.666 【MLB】56試合 打率.177 安打11 本塁打1 OPS.490 ============ 選手紹介 ============ ドラゴンズの主軸を4年間務めたブランコだったが、勝つ気のないドラゴンズから慰留されず。2012年オフにDeNAと2年契約を結んで移籍した。 移籍初年度は開幕から好調で、4月にはチーム記録を59年ぶりに更新する月間14本塁打を達成。7月には球団史上2人目となる球宴前30本塁打を記録し、チームのCS争いを牽引する活躍を見せた。 このシーズンはリーグ2位の41本塁打、トップの136打点で打点王を獲得し、打率も.333を記録して首位打者のタイトルに輝いた。ただし、後半戦には背中や脚の負傷が重なり、出場機会が減少。記録更新の期待がかかる中で欠場が続き、シーズン終盤には全力疾走を怠ったプレーが批判の的になることもあった。それでも、チームの最下位脱出を決定づける活躍を見せ、打撃面で存在感を発揮した。 翌2014年は開幕直後に満塁本塁打を放つなど順調なスタートを切ったが、左太ももの肉離れを2度繰り返し、戦線離脱を余儀なくされた。復帰後は重要な場面でいくつもホームランを打ったが故障が再発し、シーズンを通して万全の状態には戻れなかった。このシーズン終了後、横浜との契約オプションは行使されず、ブランコはチームを退団することとなった。 その後オリックスに移籍するも、体重増加と下半身のけがに悩まされ、2年間でわずか12本塁打と期待を裏切る結果に終わった。また、横浜時代に話題となった「ぶらんこブランコ」の遊具も大阪ドームに譲渡され、彼の移籍を象徴するエピソードとなった。 ⇒中日ドラゴンズ(2000年以降)参照 |
66 王溢正(ワン・イーゼン)
投手 在籍期間:2010~13 台湾/1985年10月9日生/左投左打 WBC2013 |
【NPB】6試合0勝4敗0S 防御率8.88 BB/9 7.0 K/9 5.5
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ 大洋・横浜球団史初の台湾人選手。日本ではまったく活躍できなかったが、Yahoo!知恵袋に「横浜にもこんな選手がいるんだ!と全国に発信して欲しいんです(*^◯^*)」と投稿された自称横浜ファンの書き込みが妙な流行り方をしたため、実績とは関係なく記憶に残る外国人選手となった。 |
3 アレックス・ラミレス
外野手 在籍期間:2012~13(ヤク01~07,巨人08~11) ベネズエラ/1974年10月3日生/右投右打 優良助っ人 |
【NPB】1744試合 打率.301 安打2017 本塁打380 OPS.859
(ヤク) 982試合 打率.301 安打1184 本塁打211 OPS.852 (巨人) 569試合 打率.307 安打666 本塁打148 OPS.907 (DeNA) 193試合 打率.276 安打167 本塁打21 OPS.732 【MLB】135試合 打率.259 安打86 本塁打12 OPS.730 ============ 選手紹介 ============ 選手としてだけでなく監督としてもベイスターズに多大な貢献を果たしたチームの象徴的存在。明るい性格と親しみやすいキャラクターでファンから絶大な人気を誇り、ベイスターズの歴史に名を刻んた。 ラミレスが横浜に加入したのは2012年。ヤクルト、巨人での活躍を経ての移籍だった。通算2000本安打達成を視野に入れた移籍は注目を集め、実際に2013年4月6日に外国人選手では初めて2000本目を記録。NPB史上初の外国人選手による名球会入りを果たした。 ベイスターズでは主にクリーンアップで起用された。打撃成績こそ最盛期には及ばなかったものの、勝負強さは健在で、若手選手にとっても良き手本となる存在であった。特に試合前の練習やベンチでの明るい振る舞いはチームの士気を高め、苦しい時期のベイスターズにポジティブな雰囲気をもたらした。 2016年には監督に就任。チーム史上初となる外国人監督として采配を振るい、就任1年目からチームをAクラス入りに導いた。クライマックスシリーズが導入されてから12球団で唯一進出したことがなく、ベイスターズとしては快挙といえる出来事だった。在任5年の順位は3位、3位、4位、2位、4位。長きに渡った暗黒時代を思えば大健闘と言える成績であった。チームのブランド価値向上にも大きな役目を果たし、チーム史に欠かすことのできないレジェンドとなった。 Embed from Getty Images |
56 ティム・コーコラン
投手 在籍期間:2013 アメリカ合衆国/1978年4月15日生/右投右打 |
【NPB】7試合1勝3敗0S 防御率5.61 BB/9 4.8 K/9 3.7
【MLB】40試合5勝9敗0S 防御率4.97 BB/9 5 K/9 5.4 ============ 選手紹介 ============ リリーフ右腕として活躍し、弟のロイ・コーコランとともに兄弟メジャーリーガーとして知られたティム・コーコラン。兄弟そろってゴロを打たせる投球を得意とするリリーバーだった。 弟のロイは2008~09年、シアトル・マリナーズでミドルリリーフとして頻繁に登板。イチローが在籍していた時期の中継を見ていた日本人の中には、その名前を覚えている人もいるかもしれない。 日本でプレーしたのは兄のティムで、先発をメインに7試合に登板したが空振りが取れず打ち込まれた。縫い目のキレイな日本の公式球に苦戦するのは、シンカー系のメジャー投手のあるあるだった。 |
62 鄭凱文
投手 在籍期間:2013(阪神09~12) 台湾/1988年7月26日生/右投右打 WBC2009 |
【NPB】33試合2勝3敗0S 防御率5.16 BB/9 2.9 K/9 4.8
(阪神) 27試合2勝1敗0S 防御率4.33 BB/9 2.2 K/9 4.8 (DeNA) 6試合0勝2敗0S 防御率7.29 BB/9 4.7 K/9 4.7 【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ 阪神タイガースをクビになった後、横浜DeNAベイスターズに育成契約で加入した台湾人右腕。持ち前の投球センスを期待され、シーズン途中に支配下選手登録を勝ち取るも、一軍での登板6試合・防御率7.23と結果を残せず。契約延長は無く、日本球界を去ることとなった。 ⇒阪神タイガース(2000年以降)参照 |
27 ナイジャー・モーガン
外野手 在籍期間:2013 アメリカ合衆国/1980年7月2日生/左投左打 |
【NPB】108試合 打率.294 安打109 本塁打11 OPS.795
【MLB】598試合 打率.282 安打550 本塁打12 OPS.708 ============ 選手紹介 ============ MLBではかなりの問題児、というより情緒不安定なヤバいやつと認識されていた俊足外野手。試合になると「トニー・プラッシュ」という別人格を名乗るほど感情豊かで個性が強かった。一方で攻守ともに全力プレーを怠らず、ファンからの人気も高かった。 学生時代は野球よりアイスホッケーに熱中し、カナダの高校へ留学。NHLではないプロリーグでプレーしたが限界を感じ、野球に方向転換するため短大へ進学した。 2002年に33巡目でドラフトに掛かると、2007年にピッツバーグ・パイレーツでメジャーデビュー。以降はナショナルズやブリュワーズでレギュラー外野手として活躍した。同時に、相手選手への挑発や乱闘、観客へのボール投げつけなど問題行動を繰り返し、「メジャー屈指の問題児」として知られる存在となった。 ブリュワーズ時代の2012年に極度の打撃不振に陥り、メジャー挑戦1年目の青木宣親にスタメンを奪われ、シーズン終了後にFAに。翌年、横浜DeNAベイスターズと1年契約を結び来日した。当初はその素行を懸念する声もあったが、日本では挑発行為や不穏なプレーを控え、陽気で真面目な選手として評価された。 プレー面では打率.294、11本塁打、OPS.795と安定した成績を残し、高い出塁率で攻撃陣を牽引した。しかし、1億5千万円の年俸から昇給を求めると球団との交渉が折り合わず、1年で惜しまれつつ退団。引退後は不動産投資家として新たなキャリアを歩んでいる。 Embed from Getty Images |
38 クレイトン・ハミルトン
投手 在籍期間:2011~12 アメリカ合衆国/1982年6月15日生/右投右打 |
【NPB】27試合1勝4敗0S 防御率7.25 BB/9 2.9 K/9 4.5
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ メジャー経験なし、3A経験が2ヶ月弱の元マイナーリーガー。同時期に在籍していたブランドンとともに親日家で人柄の良い外国人選手として親しまれたが、投手成績は2年連続で防御率7点台だった。 |
52 ブランドン・マン (登録名:ブランドン) 投手 在籍期間:2011~12(ロッテ19) アメリカ合衆国/1984年5月16日生/左投左打 |
【NPB】42試合3勝11敗0S 防御率4.22 BB/9 4.1 K/9 6.5
(DeNA) 28試合3勝9敗0S 防御率4.27 BB/9 3.6 K/9 5.7 (ロッテ) 14試合0勝2敗0S 防御率3.94 BB/9 6.8 K/9 11.3 【MLB】7試合0勝0敗0S 防御率5.40 BB/9 4.3 K/9 3.2 ============ 選手紹介 ============ 熱心に日本語を学び、努力を惜しまなかったマジメ外国人として、今でも中堅ベイスターズファンから愛されている元助っ人投手。当時は左腕で150km/hを投げる投手は貴重だったため、メジャー未経験ながらそれなりに期待されていた。ちょうどベイスターズの経営権がTBSからDeNAに移る前後に在籍してしまい、どん底だったチームと共に苦しい時期を過ごした。 来日初年度の2011年、ブランドンは故障によりシーズン前半を棒に振り、一軍昇格は8月下旬に。順位がほぼ確定した消化試合からの参戦となった。それでも12試合に登板して1勝1敗・防御率1.16という好成績を残し、翌年の残留を勝ち取った。 2012年は一転して不安定になり、マウンド上でデニー友利コーチによく檄を飛ばされていた。16試合に投げて2勝8敗・防御率5.32と低調で、今度は契約延長を得ることはできなかった。打線の援護に恵まれない試合も多く、苦労が絶えなかった印象が残っている。 退団後のブランドンはアメリカに戻り、マイナーリーグでプレーを続けたものの、禁止薬物使用で80試合の出場停止処分を受けた。また、イチローへの頭部死球を投じてしまうアクシデントがあったが、33歳で念願のメジャーデビューを果たしている。引退後はドライブライン・ベースボールにインストラクターとして勤務していた。 |
61 ジャンカルロ・アルバラード (登録名:ジオ・アルバラード) 投手 在籍期間:2012(広島10~11) プエルトリコ/1978年1月24日生/右投右打 WBC2009 WBC2013 |
【NPB】46試合12勝21敗0S 防御率3.53 BB/9 3.1 K/9 7.9
(広島) 38試合11勝15敗0S 防御率3.46 BB/9 2.9 K/9 7.6 (DeNA) 8試合1勝6敗0S 防御率3.92 BB/9 4.2 K/9 9.7 #N/A ============ 選手紹介 ============ 独特なインステップ投法が特徴なプエルトリコ出身右腕。日本でプレーした前後の2009年と2013年には、WBCのプエルトリコ代表として活躍した。 2010年に広島東洋カープに入団し、マエケンに次ぐ先発ローテの2番手として活躍。2011年には防御率2.72を記録したが、カープはさらなる外国人投手の補強を目指し、ジオを自由契約とした。 その後、NPBの複数球団がジオ獲得に動き、最終的にベイスターズが契約。年俸は僅かながら広島時代より増額され、期待を背負って迎え入れられた。 横浜でも開幕から先発ローテーションを任された。移籍後初登板は奇しくもカープ戦となり、古巣相手に6回を1失点に抑えたが、カープの先発マエケンにノーヒッターを喫して敗戦投手になっている。シーズン全体ではカープ時代以上に故障に苦しみ、1勝6敗・防御率3.92と成績を下げた。不振が目立った同僚外国人選手に比べるとマシなスタッツではあったが、ジオもシーズン終了後に自由契約となった。 調査が面倒だったせいではなかろうが、当時のベイスターズは日本の他球団でプレーした助っ人をよく連れてきていた。ただ移籍後の助っ人たちはベイスターズでは結果を残せないジンクスがあり、ジオもその例外とはならなかった。 ⇒広島東洋カープ(2000年以降)参照 |
38 ボビー・クレイマー
投手 在籍期間:2012 アメリカ合衆国/1979年10月28日生/左投左打 |
【NPB】2試合0勝1敗0S 防御率10.80 BB/9 6.5 K/9 5.4
【MLB】9試合2勝2敗0S 防御率2.53 BB/9 2 K/9 5.3 ============ 選手紹介 ============ 紆余曲折を経てメジャーリーガーになった苦労人投手。20代前半にヒジを痛め、チームを解雇された後はどこにも属さず2年以上野球以外の仕事に従事した時期があった。マイナー球団を何度かDFAになりながらも、30歳にして初めてメジャーの試合に登板した。 33歳になってメジャー定着が難しくなっていたときにDeNAからオファーがあり、2012年に来日。前年に打高投低のメキシカンリーグで防御率2点台前半をマークしており期待されていた。だが、一軍では2度先発登板したが両試合とも大量失点。その後はファームでも抑えることができず、ファンがクレイマー化しそうなほど期待を裏切った。 |
42 オスカー・サラザール (登録名:サラサー) 内野手 在籍期間:2012 ベネズエラ/1978年6月27日生/右投右打 |
【NPB】13試合 打率.222 安打6 本塁打0 OPS.559
【MLB】199試合 打率.269 安打100 本塁打14 OPS.778 ============ 選手紹介 ============ 春季キャンプ中に急遽テストを経て採用されたベネズエラ人選手。内外野の多くのポジションを守れるユーティリティ性を持っていた。ベイスターズに加入する前年は3Aで45試合・打率.221・2本塁打と振るわない成績だったが、DeNAでは外国人野手がアレックス・ラミレスだけという事情もあり、ローリスク・ローリターンの補強として年俸1,500万円で獲得した。 宜野湾で行われていたキャンプに合流したサラサーは、同郷の先輩でもあるラミレスに促されてサルサを披露。つかみは完ぺきだったが、開幕を二軍戦で迎えると打率2割前後と低迷。その状態で活躍できるほどプロ野球は甘くなく、一軍に引き上げられても当然打撃面で苦しんだ。選手層が厚いチームであれば起用すら難しい状況だったと思われる。 余談だが、MLB時代のサラサーは「サラザール」と表記され、同時期にジェフ・サラザールという選手もプレーしていた。ジェフの方はメジャー定着こそならなかったが、2007年に外野守備でホームランを奪い取る超ファインプレーを披露し、メジャー公式サイト実施のファン投票にノミネートされたことがあった。あのサラザールが日本に来るのかとベースボーラー(※筆者)は大いに期待したが、違うサラザールだと分かって残念に思った記憶がある。 |
56 ランディ・ルイーズ
内野手 在籍期間:2012(楽天10~11) アメリカ合衆国/1977年10月19日生/右投右打 問題児 |
【NPB】151試合 打率.239 安打113 本塁打20 OPS.712
(楽天) 119試合 打率.244 安打100 本塁打18 OPS.731 (DeNA) 32試合 打率.210 安打13 本塁打2 OPS.585 【MLB】68試合 打率.272 安打59 本塁打12 OPS.820 ============ 選手紹介 ============ 楽天イーグルス時代に打撃・内野守備の両面で失格の烙印を押されながらも、2012年のシーズン途中でベイスターズが緊急補強。35歳という年齢や楽天時代のパフォーマンスから活躍は難しいと思われた中での獲得だった。 DeNAでは一塁専任にもかかわらず、その守備は不安定。ファーストには中村紀洋、サードには筒香嘉智が定着し、さらに後藤武敏が復活していたため、必然的にルイーズの出場機会は限られた。代打としても選球眼の悪さが足を引っ張り、期待された長打力を発揮する場面はほとんどなかった。 年俸1500万円と低コストではあったが、「安物買いの銭失い」と言われても仕方のない結果に終わった。典型的なDH向けの選手であるルイーズを、DH制のないセ・リーグのチームがなぜ獲得したのか、理解に苦しむチーム編成だった。 |
68 スティーブン・ランドルフ
投手 在籍期間:2009~11 日本/1974年5月1日生/左投左打 |
【NPB】24試合7勝11敗0S 防御率3.39 BB/9 5.3 K/9 8.8
【MLB】109試合10勝7敗0S 防御率5.52 BB/9 7.9 K/9 7.8 ============ 選手紹介 ============ 2009年シーズン途中に横浜ベイスターズに加入。奪三振能力の高さがストロングポイントで、NPB初登板では史上7人目・外国人選手初の「初打席初本塁打」を記録し、さらにリリーフ登板で日本記録となる15奪三振を達成するなど、強烈なインパクトを残した。この年はわずか8試合の登板ながら5勝2敗・防御率1.96という好成績を挙げ、最下位に沈んだチームの数少ない光となった。 2010年は球団の歴代助っ人初の開幕投手を務めたが、シーズンを通じてムエンゴに泣き2勝9敗・防御率4.25で退団。翌年、震災の影響で助っ人投手リーチが離日したことを受け、穴埋めのために再入団したが、ファストボールの球速が130km/h台前半まで低下していた。二軍でも抑えることができずわずか2カ月で解雇とされた。 父親が元軍人であり、嘉手納基地に勤務していた時期にスティーブンが誕生。1歳のときまで沖縄に住んでいた。 Embed from Getty Images |
3 ターメル・スレッジ
外野手 在籍期間:2010~11(日ハム08~09,12) アメリカ合衆国/1977年3月18日生/左投左打 期待以上 |
【NPB】501試合 打率.263 安打463 本塁打96 OPS.829
(日ハム) 277試合 打率.270 安打257 本塁打48 OPS.840 (DeNA) 224試合 打率.255 安打206 本塁打48 OPS.816 【MLB】291試合 打率.247 安打174 本塁打25 OPS.745 ============ 選手紹介 ============ 2009年まで日本ハムファイターズでプレーしていたスキンヘッドの外野手兼一塁手。2009年に27本塁打を記録する活躍を見せたが、ファイターズは中田翔の成長を見据えて引き留めに消極的だった。その結果、日本の球団間で争奪戦が繰り広げられ、最終的にスレッジが望んでいた大幅昇給(年俸1億8000万円)と複数年契約を提示した横浜ベイスターズが獲得した。 ベイスターズでは長距離砲として期待に応え、2年連続で20本塁打を達成。しかし、ケガによる離脱が多かったことや、アレックス・ラミレスの加入による編成の変化もあり、2年で契約満了となった。 ⇒北海道日本ハムファイターズ(2000年以降)参照 Embed from Getty Images |
42 ブレット・ハーパー
内野手 在籍期間:2010~11(楽天12) アメリカ合衆国/1981年7月31日生/右投左打 |
【NPB】186試合 打率.284 安打168 本塁打28 OPS.819
(DeNA) 167試合 打率.294 安打160 本塁打28 OPS.848 (楽天) 19試合 打率.174 安打8 本塁打0 OPS.472 【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ 低年俸のわりに大きな当たりを連発した元長距離砲。マイナーでは3Aまで昇格するも解雇され、2010年途中にベイスターズへ年俸1000万円でテスト入団した。 初年度は一軍合流直後からクリーンナップとして起用された。7月の巨人戦ではマーク・クルーンから逆転サヨナラ満塁ホームランを放ち、シーズントータルでは打率.316・OPS.991。たった64試合出場にして19本塁打の好成績を残し、年俸3000万円で再契約した。 2年目の2011年は前年ほどは打てず、若手選手の台頭や途中加入した中村紀洋とポジションが被り、出番が減少。打率.278・OPS.747と悪くない数字を残したが、ファーストの守備のマズさを差し引かれて契約終了となった。 なお、ハーパーの父ブライアン・ハーパーは、メジャー通算1001試合出場の元捕手。1991年にミネソタ・ツインズのワールドシリーズ制覇に貢献した実績を持つ。ミルウォーキー・ブリュワーズ時代にディンゴに正捕手の座を奪われるまで活躍していた。 |
24 ブレント・リーチ
投手 在籍期間:2011 アメリカ合衆国/1982年11月18日生/左投右打 |
【NPB】8試合1勝7敗0S 防御率5.95 BB/9 4.8 K/9 8.2
【MLB】38試合2勝0敗0S 防御率5.75 BB/9 5.3 K/9 8.4 ============ 選手紹介 ============ 2011年にベイスターズに入団。春季キャンプでは好調で期待を集めたが、東日本大震災に恐怖を覚えてアメリカに帰国。家族が反対しているとの理由で再来日を拒絶し、そのままシーズン開幕を迎えてしまったため、プロ野球史上初の「制限選手」に指定された。なお、アメリカにいる間は母校で自主トレをしていたらしい。 その後、7月になってようやく再来日し、後半戦から一軍に合流したものの1勝7敗・防御率5.95の不本意な成績に終わった。 |
32 ルイス・ゴンザレス2
投手 在籍期間:2011 プエルトリコ/1983年2月27日生/左投左打 |
【NPB】2試合1勝1敗0S 防御率12.86 BB/9 1.3 K/9 5.1
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ プエルトリコ出身の左腕投手。高校時代に外野手から投手へ転向し、マイナーでは3Aまで昇格するもメジャーには届かなかった。 2011年5月、入団テストを経てベイスターズと支配下契約を締結。初登板となった対中日戦では味方の大量援護もあり、幸運な形で初勝利を手にした。しかし次戦では2回6失点と大炎上し、即日イースタンに降格。そのまま一軍に戻ることはなかった。 退団後は四国アイランドリーグや台湾の兄弟エレファンツなどでプレー。台湾時代には身元不明の人物から数回にわたり八百長への協力を求められたが、きっぱりと断り警察とリーグに報告した。また、再びNPB球団への復帰を目指しトライアウトを受験したものの、復帰は叶わなかった。 |
◇2010年までに在籍した外国人選手 |
113 陳瑋(チェン・ウェイ)
投手 在籍期間:2009~10 中華人民共和国/1983年6月11日生/右投右打 WBC2009 |
【NPB】1軍出場なし
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ 球団初の中国本土出身の投手。ベイスターズ入団以前はCBL(中国野球リーグ)の天津ライオンズに所属しており、2008年のアジアシリーズで西武ライオンズで先発登板して2回5失点とKOされていた。 2009年に天津時代の同僚の王靖超とともに、業務提携を結んでいたベイスターズに育成選手として入団した。二軍で何試合か登板したが、2年で退団となり天津ライオンズに復帰した。 |
114 王靖超(ワン・ジンチャオ)
内野手 在籍期間:2009~10 中華人民共和国/1988年7月13日生/右投右打 WBC2006 WBC2009 |
【NPB】1軍出場なし
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ 陳瑋と同じくベイスターズ初の中国人選手となった内野手。2006年に当時17歳の最年少でWBC中国代表に選出。オンシーズンは天津ライオンズに所属し、中国を代表するショートになると期待されていた。 陳と一緒に2009年に加入し、イースタンリーグの公式戦や教育リーグの試合に出ていたが、陳と同じく2010年をもって契約終了した。 退団後は天津ライオンズに戻り、2020年まで現役選手としてプレー。その後コーチになって再び天津に所属している。 |
27 クリス・ブーチェック
投手 在籍期間:2010 アメリカ合衆国/1978年10月24日生/右投右打 |
【NPB】15試合1勝0敗0S 防御率4.62 BB/9 2.5 K/9 8.9
【MLB】91試合3勝7敗1S 防御率6.55 BB/9 4 K/9 6.4 ============ 選手紹介 ============ 2010年にクローザー候補として鳴り物入りで加入したアメリカ人右腕。195cmの長身から投げ下ろす力強い投球が期待されたが、日本では25回1/3に対して38安打・5本塁打を浴びる厳しい結果となった。 アメリカでは大学生のときにドラフト1巡目(全体20位)でアナハイム・エンゼルスに入団。それなりに期待値が高かったが、2006年の試合中に乱闘に加わるためマウンドに向かう途中にハムストリングスを痛めて長期離脱。2007年にキャリアハイの51試合・77イニングを投げた以外はメジャーで活躍することができず、2010年にベイスターズと契約した。背番号はいわくつきの27だった ベイスターズには守護神として期待されて入団したが、キャンプやオープン戦で調子が上がらず、急遽山口俊が抑えに回ることに。二軍に落とされたブーチェックは先発に配置転換され、一軍昇格を果たしたものの前述のとおり打ち込まれた。 ブーチェックが期待通りの活躍を見せていれば、山口俊はこれまでどおり先発で投げていたはず。手薄になってしまったローテがもう少しマシになっていたはずで、ファンの間では怨嗟の声が聞かれる。 |
51 ホセ・カスティーヨ
内野手 在籍期間:2010(ロッテ11) ベネズエラ/1981年3月19日生/右投右打 元有望株 |
【NPB】217試合 打率.271 安打216 本塁打24 OPS.722
(DeNA) 131試合 打率.273 安打127 本塁打19 OPS.756 (ロッテ) 86試合 打率.269 安打89 本塁打5 OPS.674 【MLB】592試合 打率.254 安打487 本塁打39 OPS.675 ============ 選手紹介 ============ ローズ以来久々に現れたまともな助っ人二塁手。守備がうまい前評判だったことから当初は下位打線を打つと思われていたが、キャンプやオープン戦で評価が上昇。主軸として強力打線の一角を担ったが、反対に内野守備はお粗末なプレーを見せてしまい、1年で退団となった。 翌シーズン途中に千葉ロッテと契約。それ以降メキシカンリーグのほか複数の国を転々としながらプレーを続けていたが、カルロス・リベロが運転する車に同乗中に”置き岩”にぶつかる被害に遭い、37歳の若さで亡くなった。 Embed from Getty Images |
42 トム・マストニー
投手 在籍期間:2009 インドネシア/1981年2月4日生/右投右打 |
【NPB】15試合1勝5敗0S 防御率5.69 BB/9 3.6 K/9 6.3
【MLB】80試合9勝5敗5S 防御率6.13 BB/9 4.9 K/9 8.1 ============ 選手紹介 ============ メジャーリーグ、日本プロ野球ともに史上初のインドネシア生まれの選手として知られるアメリカ国籍の投手。母親が夫婦で世界一周旅行中に突然産気づき、ボルネオ島でトムを産み落とした。旅行から帰った後は、もとの実家のインディアナ州で育った。 2003年、ドラフト11巡目でプロ入り。当初は先発投手としてキャリアをスタートさせたが、2A昇格後に徐々にリリーフにシフトしていった。クリーブランド・インディアンス傘下での注目度は低かったが、2006年にチャンスを掴む。クローザーのボブ・ウィックマンが離脱した際にメジャー初昇格し、5セーブを記録する活躍を見せた。翌年は新クローザー候補として期待を集め、7勝2敗・防御率4.68というまずまずの成績を残したものの、2008年は14試合で防御率10.80と大炎上し、戦力外となった。 2009年、横浜ベイスターズに入団。当初はクローザー候補と目されていたが、なぜか先発としても起用され、ポジションが安定しない不運もあった。しかし、198cm/100kgという恵まれた体格を誇りながら、ファストボールの威力はメジャー平均を下回るもので、豊富な変化球も決定打に欠けた。メジャー時代の課題であった「空振りを奪える球種が少ない」という弱点はNPBでも露呈し、与四球の多さが目立った。 Embed from Getty Images日本に来た時には、既にこんなに脚を上げなくなっていた |
10 ライアン・グリン
投手 在籍期間:2009(楽天06,日ハム07~08) アメリカ合衆国/1974年11月1日生/右投右打 |
【NPB】94試合26勝44敗0S 防御率3.62 BB/9 2.6 K/9 6.4
(楽天) 21試合7勝7敗0S 防御率3.96 BB/9 2.5 K/9 8.6 (日ハム) 50試合16勝22敗0S 防御率2.94 BB/9 2.7 K/9 5.9 (DeNA) 23試合3勝15敗0S 防御率5.11 BB/9 2.7 K/9 5.3 【MLB】52試合9勝20敗0S 防御率6.24 BB/9 4.7 K/9 4.6 ============ 選手紹介 ============ ベイスターズがNPB3球団目となった先発右腕。ファイターズで投げた前年は7勝14敗と大きく負け越していたものの防御率は3.64。アンラッキーなだけだったとの見立てを受け、ベイスターズが先発ローテ入りを約束して加入させた。 横浜での成績は3勝15敗とファイターズ時代よりも派手に大負けした。イニングイーターとしては最低限の役目はこなしたが、防御率5.11と打ち込まれた。 |
48 レス・ウォーランド
投手 在籍期間:2009 アメリカ合衆国/1976年11月7日生/左投左打 |
【NPB】21試合5勝10敗0S 防御率4.80 BB/9 4.1 K/9 6.9
【MLB】23試合1勝4敗0S 防御率7.07 BB/9 7.1 K/9 9.8 ============ 選手紹介 ============ 3Aで何年も好成績を挙げていたが、常勝球団だったカージナルスの先発投手陣に空きが全くなく、メジャーデビューが遅れてしまった。ベイスターズには2009年に在籍した。 横浜での1年間はイニングイーターとしては貢献したが、5勝10敗・防御率4.80と抑えたとは言い難い成績だった。制球力が悪かったが、それ以上にフィールディング難に大きな問題を抱えていた。弱点を隠そうとしていたのか、バント処理や一塁への牽制球をムダに全力で投げ、ファーストの佐伯を毎度びびらせていた。 |
3 ダン・ジョンソン
投手 在籍期間:2009 アメリカ合衆国/1979年8月10日生/右投右打 |
【NPB】117試合 打率.215 安打70 本塁打24 OPS.791
【MLB】443試合 打率.234 安打324 本塁打57 OPS.741 ============ 選手紹介 ============ メジャー通算57本塁打を記録した左打ちの内野手。2005年にアスレチックスでデビューし、同年には15本塁打を放つ活躍を見せた。MLBではちょうどマネー・ボールが流行っていた時期で、パワーと選球眼を兼ね備えたプレースタイルはMLBにマッチしたが、しだいに低打率がひどくなると出場機会が少なくなっていった。 横浜(現DeNA)では2009年に加入し、序盤は不調ながらも後半戦にフォームを修正して15本塁打を記録。不慣れな三塁守備や4番を任される場面もあったが、年俸1億円を払っていただけにもっと適応してほしかった。 退団後はMLB復帰を果たし、レイズ時代にはプレーオフ争いの中で劇的なホームランを放つなど「クラッチヒッター」としての印象を残した。後年はナックルボーラーへの挑戦も話題に。 Embed from Getty Images |
64 マット・ホワイト (登録名:マットホワイト) 投手 在籍期間:2007~08 アメリカ合衆国/1977年8月19日生/左投右打 |
【NPB】39試合1勝3敗2S 防御率4.82 BB/9 2.7 K/9 7.3
【MLB】7試合0勝2敗0S 防御率16.76 BB/9 7.4 K/9 2.8 ============ 選手紹介 ============ 2005年にはオリックス・バファローズの入団テストを受けていたが、軟投派の投球スタイルがチームの求める外国人投手像に合わず不合格となっていた。2年が経ち、2007年に左腕不足を解消するため、ベイスターズがシーズン途中に契約した。 来日直後の二軍での調整登板では、最初の7イニングで16失点を喫し、大きな不安を抱えたスタートとなった。一軍昇格後もコンディション不良により打ち込まれていたため、翌年の契約は絶望的とみられていた。しかしシーズン終盤にリリーフ専任になると一転、9試合連続無失点の快投を見せた。 終盤の怒涛の活躍が評価され、翌シーズンの契約を勝ち取った。しかし、2007年は父親の急病で一時帰国する事態が発生。手術を見届けた後に再来日したが、野球に集中できない状態が続き、夏場に退団となった。 ホワイトにはアメリカ時代に特筆すべきエピソードがある。メジャー昇格を目前にしていた2003年、経済的に苦境にあった叔母を支援するため、彼女が所有していたマサチューセッツ州の広大な山を5万ドルで購入した。その後、ホワイトが家を建てるために地盤を調べると、25億ドルにも上る価値の建築用石材が埋蔵されていることが判明する。大がかりな採掘には途方もない費用がかかるため、ちょっとずつ掘り出していたが、メジャー定着ラストチャンスだった2007年にニュースで広く報道された。招待選手としてドジャースのスプリングトレーニングに参加していたホワイトは「Mr.ビリオネア」とからかわれたが、開幕までメジャー25人枠に残ることができず、日本球界行きを模索するようになった。 |
42 トラビス・ヒューズ
投手 在籍期間:2008 アメリカ合衆国/1978年5月25日生/右投右打 |
【NPB】21試合1勝1敗1S 防御率4.91 BB/9 4.5 K/9 7.4
【MLB】24試合1勝1敗0S 防御率6.31 BB/9 5.6 K/9 5.6 ============ 選手紹介 ============ 2007年オフ、3年連続で好成績を残したマーク・クルーンが読売ジャイアンツに移籍。空席となったクローザーの候補として、ベイスターズはトラビス・ヒューズを獲得した。 シーズン序盤から5月頃までは安定した投球を見せたものの、次第に打ち込まれる場面が増加。勝ち試合で使われなくなり、クローザーは先発タイプの寺原隼人が起用された。飛んだヒューズが直されることはなく、8月にチームからウエーバー公示された。 |
10 マイク・ウッド
投手 在籍期間:2008 アメリカ合衆国/1980年4月26日生/右投右打 |
【NPB】26試合3勝12敗0S 防御率4.69 BB/9 3.0 K/9 3.8
【MLB】115試合16勝22敗2S 防御率5.49 BB/9 3.3 K/9 4.8 ============ 選手紹介 ============ メジャー時代は先発とロングリリーフとして通算115試合に登板。ファストボールの球速は日本人投手並み、変化球のレパートリーが多い技巧派投手だった。 ベイスターズには2008年に在籍。年間を通じて先発ローテーションを守り、エースの三浦大輔に次ぐ136回1/3を投げた。ただ開幕から13試合勝ち星が無く、最終的に3勝12敗と大負けしてしまった。 |
48 デーブ・ウィリアムズ
投手 在籍期間:2008 アメリカ合衆国/1979年3月12日生/左投左打 |
【NPB】7試合2勝2敗0S 防御率4.26 BB/9 1.4 K/9 2.8
【MLB】82試合22勝31敗0S 防御率4.83 BB/9 3.6 K/9 5.4 ============ 選手紹介 ============ 2005年にピッツバーグ・パイレーツの先発ローテーションで投げ、10勝11敗・防御率4.41を挙げたのがキャリアハイの元MLBプレイヤー。その後もメジャーでそこそこ投げていたが、メジャー球団からのオファーを蹴って2008年シーズンをベイスターズでプレーすることに決めた。父親が横田基地に勤務した関係で小学生時代に日本に住んでいたため、以前から日本球界入りを希望していたと言われている。 ベイスターズでも先発起用されたが、パイレーツで投げていた頃よりスピードが出ず、25イニングで41安打を浴びた。 Embed from Getty Images |
3 J.J.フォーマニアク (登録名:ジェイジェイ) 内野手 在籍期間:2008 アメリカ合衆国/1979年7月31日生/右投右打 |
【NPB】25試合 打率.157 安打8 本塁打2 OPS.460
【MLB】29試合 打率.186 安打8 本塁打0 OPS.606 ============ 選手紹介 ============ 二遊間やサードを守れる堅実な守備に定評がある一方、打撃が課題とされていた元メジャーリーガー。名前の響きが問題視されたのか、「ジェイジェイ」という登録名でプレーすることになった。 来日した2008年は若手選手の起用を優先され、ジェイジェイは開幕からほとんどを二軍で過ごすことに。しかし、モチベーションを落とすことなく野球に取り組み、主軸として打率.300をマーク。一軍ではまったく活躍できなかったが、外国人選手では珍しい二軍のキャプテンを任されたマジメな人物だった。 Embed from Getty Images |
6 ラリー・ビグビー
外野手 在籍期間:2008 アメリカ合衆国/1977年11月4日生/右投左打 |
【NPB】72試合 打率.255 安打55 本塁打8 OPS.739
【MLB】392試合 打率.267 安打328 本塁打31 OPS.726 ============ 選手紹介 ============ 一時期メジャーリーグでレギュラーとして活躍した経験を持つスプレーヒッターの外野手。2001年にボルティモア・オリオールズでメジャーデビューし、2003年にはレフトのレギュラーに定着。打率.303・OPS.821と安定した打撃成績を残すと、翌2004年には139試合に出場して初の規定打席に到達し、打率.280・15本塁打をマークして実績を確かなものとするかと思われた。しかし、2005年以降は度重なる故障に悩まされ、次第にキャリアが停滞。オリオールズを解雇され、それ以降は複数の球団を渡り歩く形となった。 そんなビグビーが横浜ベイスターズに加入したのは2007年12月であった。しかし、契約直後にアメリカで発表されたミッチェル・リポートの中にビグビーの名前が掲載され、禁止薬物に手を染めるまでの過程が事細かに書かれていた。驚くべきことに、ビグビーに関する記述は計7ページに及び、これはロジャー・クレメンスやマーク・マグワイヤに次ぐ量であった。ベイスターズは契約解除を検討するも、パワー向上ではなく治療目的で使用していたとの供述を信じ、最終的に正式契約に至った。 2008年、ビグビー獲得の背景には、北京オリンピックの影響で主砲・村田修一がチームを離れることを見越した補強の意図があった。しかし、オリオールズ時代から続くスペ体質は日本でも変わらず、肝心の五輪期間中に離脱する事態に。結局、思うような戦力にならず、高額年俸(推定6500万円)に見合わない結果となった。 |
42 マーク・クルーン
投手 在籍期間:2005~07(巨人08~10) アメリカ合衆国/1973年4月2日生/右投右打 元有望株 大活躍 160km/h |
【NPB】304試合14勝18敗177S 防御率2.68 BB/9 3.6 K/9 12.3
(DeNA) 145試合8勝8敗84S 防御率2.82 BB/9 2.9 K/9 12.3 (巨人) 159試合6勝10敗93S 防御率2.56 BB/9 4.2 K/9 12.3 【MLB】26試合0勝2敗0S 防御率7.43 BB/9 8.8 K/9 7.8 ============ 選手紹介 ============ 2000年代のNPBを代表する速球王。来日時点では158km/hだった日本記録を毎年のように更新し、横浜に所属した3シーズンすべてオールスターに選出された。 アメリカ時代は2Aにいた1995年にBaseball America の有望株ランキング69位に掲載された。このときは先発として出場していたが、メジャー昇格前にブルペンに配置転換された。球のスピードはアメリカでも相当速かったが、MLBデビュー後の成績はさえないものだった。 クルーン入団前年のベイスターズは、佐々木主浩の衰えやギャラードの不振によりクローザーが固定できなかった。2005年に来日したクルーンは3年間安定して投げ続け、145登板・84セーブ・防御率2.82を記録。ポスト佐々木のクローザー役を見事全うしてくれた。 3年目のシーズン終了後、FAとなったクルーンの争奪戦が起き、マネーゲームに強い読売ジャイアンツに移籍。2008年に自身が持つ日本最速記録を更新する162km/hを計時し、キャリアハイの41セーブを挙げてセーブ王に輝いた。 Embed from Getty Images |
56 スコット・チャイソン (登録名:チアソン) 投手 在籍期間:2007 アメリカ合衆国/1977年8月14日生/右投右打 元有望株 |
【NPB】1軍出場なし
【MLB】10試合1勝1敗0S 防御率11.12 BB/9 6.4 K/9 7.1 ============ 選手紹介 ============ ペプシコーラを1日3リットル飲むという謎のエピソードを残した右腕投手。二軍でも1度も投げなかった。 |
58 ホセロ・ディアス (登録名:ホセロ) 投手 在籍期間:2007 ドミニカ共和国/1980年4月13日生/右投右打 |
【NPB】45試合3勝4敗2S 防御率4.59 BB/9 7.8 K/9 8.2
【MLB】5試合0勝0敗0S 防御率9.39 BB/9 10.6 K/9 5.9 ============ 選手紹介 ============ 元々キャッチャーとしてプロ入りした経歴を持つ元リリーフ投手。16歳のときにロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結び渡米した。しかし、21歳の時点でもルーキーリーグと1Aを行き来する日々が続き、肩の強さは評価される一方でキャッチング技術の未熟さが課題とされていた。この状況を見たコーチの勧めで投手に転向。その後、様々なマイナーチームを渡り歩き、ついにメジャー昇格を果たした。 メジャーでは「ホセ・ディアス」の名前で登板したが、防御率9.39と振るわず、通算5試合と定着には至らなかった。彼のキャリアで特筆すべきは、彼がニューヨーク・メッツ傘下に在籍中、タンパベイ・デビルレイズへのトレードに巻き込まれたこと。このトレードでは、当時の高卒有望株スコット・カズミアーとホセロが放出され、後にカズミアーがデビルレイズのエースに成長したため「メッツ史上有数の失敗トレード」と評される結果に。ホセロ自身も、この歴史的なトレードに名前を残す形となった。 2007年、ホセロは横浜ベイスターズに加入。元キャッチャーらしくバッティングセンスも良く、代打を送られずそのまま打席に立つことも多々あった。ある試合ではホームランを放ったあと、イニング跨ぎの投球でピンチを招き、交代したクルーンがスリーランを打たれて負け投手になった。 リリーフとして45試合に登板し、66回2/3を投げたが、制球難が大きな課題で58四球・6死球と尋常でない量のバッターを歩かせた。それでも当時としては珍しかった150km/h超の速球にはロマンがあり、ホセロ以降に獲得した外国人投手を思い起こすと解雇しなくてもよかったのでは?と思える投手だった。 |
43 ジェイソン・ベバリン
投手 在籍期間:2006(ヤク03~04) アメリカ合衆国/1973年11月27日生/右打左打 |
【NPB】49試合17勝19敗0S 防御率5.08 BB/9 3.8 K/9 6.7
(ヤク) 41試合17勝15敗0S 防御率4.27 BB/9 3.8 K/9 6.5 (DeNA) 8試合0勝4敗0S 防御率11.13 BB/9 4.2 K/9 8.1 【MLB】7試合0勝3敗0S 防御率8.69 BB/9 4.1 K/9 7.3 ============ 選手紹介 ============ ベイスターズの歴代の外国人投手といえば、特に先発投手が不毛だったことで知られている。スカウティング能力の問題も一因と考えられるが、横浜スタジアムが打者有利な球場であり、フライボールピッチャーにとって厳しい環境であることも原因の一つと見る向きがあった。似たように狭い神宮球場を本拠地とし、実績を残していたヤクルトスワローズの外国人投手を獲得することで補強を図った。こうして2006年に横浜へ加わったのがベバリンである。 ベバリンは2003~04年までヤクルトに在籍し、17勝15敗と安定した成績を残していた。2004年には開幕投手に任命され、エース格として活躍していた。しかしベイスターズに加入後は8試合で0勝4敗・防御率11.13に終わり、わずか1年で退団。後に楽天イーグルスの入団テストを受けたとの情報もあるが、日本球界でのキャリアは横浜で途絶えた。 当時は牛島監督がフロントに投手陣の補強を要望し、ベバリンのほかにも佐久本やソニアが加入した。しかし、いずれも目覚ましい活躍を見せることはなく、チームの戦力強化にはつながらなかった。ヤクルト時代には活躍していたベバリンもまた、横浜のユニフォームを着た途端に調子を崩した外国人投手として記憶されている。 |
58 ショーン・ソニア
投手 在籍期間:2006 アメリカ合衆国/1976年7月5日生/右投右打 |
【NPB】27試合1勝0敗0S 防御率3.82 BB/9 3.8 K/9 10.9
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ 2006年に1年だけ在籍した右投げ投手。アメリカでは短期間3Aにいたマイナーリーガーだった。牛島和彦監督の投手陣強化の希望を受け、フロント主導で連れてこられた助っ人外国人で、同時期に加入した佐久本昌広やベバリンとともにチームの戦力アップに期待された。 ソニアは150km/h近い速球と豊富な変化球を武器に、12試合に登板して2勝1敗・防御率3.45というまずまずの成績を残した。しかし、主に敗戦処理での起用が多く、なぜかシーズン中盤以降は二軍生活を強いられた。まともに出番がないままシーズン終了後に契約更新されず退団している。 球団や首脳陣の意図は不明だが、実力に対して充分なチャンスを与えられなかった印象が強い。投手成績も決して悪くなく、もう1年残しておいても良かったのでは?という声が少なくなかった。ベイスターズの長きに渡る暗黒期にあって、チームの選手起用が迷走していたことも、ソニアの短命なNPB生活の一因だったのかもしれない。 |
◇2005年までに在籍した外国人選手 |
50 セドリック・バワーズ (登録名:セドリック) 投手 在籍期間:2004~05(楽天06) アメリカ合衆国/1978年2月10日生/左打両打 期待以上 問題児 |
【NPB】38試合14勝9敗0S 防御率3.69 BB/9 4.4 K/9 7.7
【MLB】19試合0勝1敗0S 防御率7.40 BB/9 4.8 K/9 10 ============ 選手紹介 ============ 2004年シーズン途中、3Aでプレーしていた左腕投手をベイスターズが急遽獲得。当時のベイスターズでは外国人選手をハマスタに通いやすい高級マンションに住まわせるのが通例だったが、セドリックには専属通訳が付かず、二軍の寮生活をさせられるなど、まるで育成枠のような扱いを受けたことが話題になった。それでも異国での適応に努め、若手選手とのコミュニケーションを積極的に図る姿勢が評価された。 その頑張りは次第に周囲に認められ、野球の方でも一軍の試合に出られるようになっていった。初年度はシーズン途中加入ながらにはチーム最多タイの7勝を挙げ、住環境もほかの外国人選手と同レベルに格上げされた。 …とここまでは良かったが、翌年は態度が一変。やる気の問題なのか、前年より簡単にフォアボールを与えるようになり、フルシーズンを過ごしながら前年と同じ7勝にとどまった。気性の激しさも目立ち、降板を巡って牛島監督と何度も衝突した。防御率こそ3点台をキープしたものの、2005年シーズンを最後に自由契約になった。 なお、登録名が「バワーズ」にならなかった理由は、2001~02年に在籍したシェーン・バワーズが7勝21敗の不振に終わった影響とされる。ただし、当時横浜ベイスターズにはトヨタが多額のスポンサー料を提供していたため、「セドリック」の登録名について事前に根回しが行われていたという。ちなみに彼の母親の名前は「グロリア」で、奇しくも母息子ともに日産車の名前と一致していた。 |
43 マイク・ホルツ
投手 在籍期間:2005 アメリカ合衆国/1972年10月10日生/左投左打 |
【NPB】44試合0勝1敗0S 防御率4.38 BB/9 3.6 K/9 8.0
【MLB】353試合16勝20敗3S 防御率4.76 BB/9 4.9 K/9 8.4 ============ 選手紹介 ============ 左のリリーフが不足していた(先発も足りなかったが…)ことから補強された175cmの小柄なサウスポー。メジャーリーグ通算353試合登板の実績を持つ「左殺し」であり、横浜でもシチュエーショナルレフティとして期待された。ベイスターズでは44試合登板と一定の貢献をしたが、夏場に調子を落として打ち込まれたのが悪印象だった。 真面目な性格で知られ、1年しかいなかったが特に牛島監督からは人間性を高く評価されていた。 |
39 ケビン・ウィット
内野手 在籍期間:2005(楽天07) アメリカ合衆国/1976年1月5日生/右投左打 元有望株 |
【NPB】65試合 打率.173 安打31 本塁打10 OPS.615
(DeNA) 25試合 打率.172 安打11 本塁打4 OPS.612 (楽天) 40試合 打率.174 安打20 本塁打6 OPS.615 【MLB】146試合 打率.233 安打93 本塁打15 OPS.643 ============ 選手紹介 ============ 3Aでは大活躍するもメジャーに上がると全く打てなくなる、「4Aプレイヤー」の代表格のような元内野手。ドラフト1巡目の高順位でプロ入りし、22歳の若さでメジャーにたどり着くほど大きく期待されていた選手だった。 ベイスターズ入団前年に3Aで36本塁打を記録しており、クリーンナップとして迎え入れられたが、日本では変化球とストライクゾーンの違いに苦しんだ。退団時に「日本の野球は難しかった」とコメントしたと伝えられている。 退団翌年に3Aでホームラン王・打点王の2冠の輝いたことで楽天と契約したが、ベイスターズ時代と変わらず1年でクビになっている。 |
32 エディ・ゲイラード (登録名:ギャラード) 投手 在籍期間:2003~04(中日2000~03) アメリカ合衆国/1970年8月13日生/右投右打 問題児 |
【NPB】194試合6勝9敗120S 防御率2.90 BB/9 2.4 K/9 6.7
(中日) 168試合4勝6敗112S 防御率2.52 BB/9 2.4 K/9 6.8 (DeNA) 26試合2勝3敗8S 防御率5.33 BB/9 2.5 K/9 6.0 【MLB】30試合2勝0敗1S 防御率4.66 BB/9 4.2 K/9 5.9 ============ 選手紹介 ============ 中日ドラゴンズで3年間好成績を残していたが契約問題で揉めた元クローザー。ドラゴンズ最終年の2003年、加入した大塚晶則をクローザーの座を脅かす存在として異様に警戒。シーズン中に故障から復帰した際には中継ぎで調整させようとしたチームの方針にブチ切れ、ケンカ別れのような形で契約解除された。ウエーバーにかけられると、一番最初に選択権のあるベイスターズはクローザーを固定できていない事情からギャラード獲得を決めた。 移籍初年度は0勝1敗8S・防御率2.19と結果を残した。ただし翌シーズンはメジャー帰りの佐々木主浩がクローザーに迎え入れ、中継ぎ降格になったギャラードはヒジの故障とモチベ低下によって退団していった。 ⇒中日ドラゴンズ(2000年以降)参照 |
44 タイロン・ウッズ (登録名:T・ウッズ) 内野手 在籍期間:2003~04(中日05~08) アメリカ合衆国/1969年8月19日生/右投右打 大活躍 期待以上 |
【NPB】824試合 打率.289 安打851 本塁打240 OPS.965
(DeNA) 266試合 打率.286 安打273 本塁打85 OPS.964 (中日) 558試合 打率.291 安打578 本塁打155 OPS.965 【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ 韓国のOBベアーズでMVPを獲得し、日韓複数球団の争奪戦の末にベイスターズに入団した。当初は大物メジャーリーガーのコックスの保険要員だったが、開幕スタメンの座を掴むと4番に君臨。2年連続してホームラン王に輝く大活躍だった。 最下位に終わった2004年シーズン終了後、ベイスターズは昇給を求めるウッズとの契約交渉が難航。その間に、リーグ優勝しながらも4番タイプではない立浪と福留がクリーンナップを務める中日ドラゴンズへと移籍していった。 ベイスターズ時代はとにかく威圧感のあるイメージが強かったが、「東京ドームは50%の力でもホームランを打てる」退団時に口にした「ノーマネー・ノータイロン」といった迷言を複数残している。 ⇒中日ドラゴンズ(2000年以降)参照 |
40 スコット・マレン
投手 在籍期間:2004(巨人05) アメリカ合衆国/1975年1月17日生/左投右打 |
【NPB】50試合13勝18敗0S 防御率5.29 BB/9 2.5 K/9 6.1
(DeNA) 28試合7勝10敗0S 防御率4.71 BB/9 2.3 K/9 5.2 (巨人) 22試合6勝8敗0S 防御率6.22 BB/9 2.8 K/9 7.7 【MLB】75試合4勝5敗0S 防御率4.66 BB/9 4.7 K/9 4.7 ============ 選手紹介 ============ どん底だった2004年の横浜ベイスターズに在籍した先発投手。左の先発要員としてローテーションを守り、7勝10敗。これでもセドリック、吉見祐治と並んでチームトップタイの勝利数だったが、契約延長はされなかった。 ちなみに、テキサス州で生まれたが軍人の父親が日本勤務だった時期があり、少年時代に山口県岩国市に2年間住んでいた。 Embed from Getty Images |
43 ピート・ウォーカー
投手 在籍期間:2004 アメリカ合衆国/1969年4月8日生/右投右打 |
【NPB】10試合2勝4敗0S 防御率6.80 BB/9 3.7 K/9 4.5
【MLB】144試合20勝14敗4S 防御率4.48 BB/9 3.5 K/9 5.1 ============ 選手紹介 ============ 2002年にトロント・ブルージェイズでキャリアハイの10勝5敗・防御率4.33、MLB通算144試合に登板実績のある先発投手。ベイスターズでは腰のヘルニアに悩まされて活躍できなかったが、引退後は指導者の道へ進み、ブルージェイズの投手コーチを10年以上続けるキャリアアップに成功した。 Embed from Getty Images |
49 クリス・ホルト
投手 在籍期間:2002~03 アメリカ合衆国/1971年9月18日生/右投右打 |
【NPB】43試合11勝24敗0S 防御率4.13 BB/9 1.5 K/9 5.9
【MLB】133試合28勝51敗1S 防御率4.76 BB/9 3.1 K/9 5.2 ============ 選手紹介 ============ 2002年にベイスターズに入団した先発右腕。メジャー通算28勝、規定投球回超え3シーズンの実績を持つ。コントロールに優れ、当時は使い手の少ないナックルカーブと持ち球にしていた。 来日初年度の2002年は巨人と阪神を相手に完封勝利を挙げるなど好投。翌年も開幕からイニングを消化していったが、集中打を浴びる試合が増え、シーズン終了を待たずにクビを切られた。 振り返ると、日本での2年間で11勝24敗と大幅に負け越した。ホルトが在籍したベイスターズは、2年とも勝率3割台に沈むどん底のチームだった不運もあった。しかし、メジャーでも5シーズンすべてで負け越し、MLB通算成績は28勝51敗。ストライク先行のテンポ良い投球が持ち味でありながら、この成績は負け運が強さ以外に説明がつかない。 Embed from Getty Images |
50 ドミンゴ・グスマン (登録名:グスマン→ドミンゴ) 投手 在籍期間:2002~03(中日04~06,楽天07~09) ドミニカ共和国/1975年4月5日生/右投右打 |
【NPB】108試合30勝37敗0S 防御率4.01 BB/9 2.7 K/9 6.9
(DeNA) 44試合13勝17敗0S 防御率3.95 BB/9 2.4 K/9 6.8 (中日) 30試合13勝9敗0S 防御率3.86 BB/9 2.6 K/9 8.0 (楽天) 34試合4勝11敗0S 防御率4.27 BB/9 3.2 K/9 6.0 【MLB】8試合0勝1敗0S 防御率19.50 BB/9 6 K/9 6 ============ 選手紹介 ============ 台湾球界での活躍を経て、2002年にベイスターズに加入したアスリート型投手。在籍時に打者として18打席連続三振の珍記録も作っている。 横浜時代は2シーズン連続で規定投球回に到達するも、精神面から来る不安定さが課題とされ、2003年に12敗を喫したことで解雇となった。ただし、黒星が先行してはいたがよく投げており、解雇を惜しむ声も多かった。翌2004年には中日ドラゴンズで先発ローテーションに入り、10勝を挙げて優勝に貢献。他方、ドミンゴ以降は彼を上回る活躍をした投手が現れなかった。 ⇒中日ドラゴンズ(2000年以降)参照 2024年シーズン終了後、久々に「ドミンゴ」の名前がネット上を賑わせた。高校野球・秋の神奈川県大会で、幸福の科学学園に所属するエミル・プレンサ君が注目されたためだ。彼は桁外れの身体能力を誇るドミニカ人選手で、その父親があのドミンゴ・グスマンであることが判明し、大きな話題を呼んだ。 なお、父のフルネームはドミンゴ・セラーノ・グスマン。なぜ息子の名前に父親の姓が含まれていないのか、ファンの間で困惑も広がっていた。 |
32 マット・ホワイトサイド
投手 在籍期間:2003 アメリカ合衆国/1967年8月8日生/右投右打 |
【NPB】13試合0勝2敗2S 防御率7.30 BB/9 4.4 K/9 8.0
【MLB】286試合18勝15敗9S 防御率5.23 BB/9 3.5 K/9 5.7 ============ 選手紹介 ============ 2003年にポスト佐々木主浩として鳴り物入りで入団したリリーフ右腕。MLBでは4球団を渡り歩き、大きな期待を受けて来日した。 山下大輔監督の1年目となるこの年、ホワイトサイドは阪神との開幕戦で初セーブを記録。幸先の良いスタートを切ったかに見えた。しかし、その後は安定感を欠き、打撃投手のように打ち込まれる状態に陥った。好調時には150km/hに達する速球を持っていたがコントロールが不安定で、守護神候補としての期待は失望へと変わっていった。 敗戦処理要員に格下げされたあと、7月に契約解除。メジャーで286試合に登板し、18勝15敗9セーブ・防御率5.23というキャリアを持っていたが、日本では13試合・0勝2敗2セーブ・防御率7.30と全く通用しなかった。期待度に対する落差は大きかったが、ほかの外国人選手たちも皆ひどかったので悪目立ちはしない。 |
3 スティーブ・コックス
内野手 在籍期間:2003 アメリカ合衆国/1974年10月31日生/左投左打 元有望株 |
【NPB】15試合 打率.200 安打10 本塁打1 OPS.578
【MLB】378試合 打率.262 安打324 本塁打39 OPS.757 ============ 選手紹介 ============ 2003年、前年最下位に沈んだベイスターズは暗黒期からの脱却を目指し、新監督の山下大輔のリクエストを受けてメジャーリーガーのコックスを獲得。2000~2002年に3年連続で2桁本塁打を記録し、当時28歳と全盛期を迎えていた左の強打者に大きな期待が集まった。 ファン向けの雑誌の月刊ベイスターズに「NPBでは年間20~30本塁打も期待できるパワー。4番候補」と記載されたが、春季キャンプが始まって間もなく膝を負傷。開幕前に戦列復帰するも成績が振るわず、わずか15試合の出場に打率.200・1本塁打・7打点と戦力にならなかった。 一方で、保険的に獲得した韓国球界出身のタイロン・ウッズは年俸5000万円ながら40本塁打を放ち、ホームラン王を獲得。両者の活躍ぶりは明暗を分けた形となった。 結果的にウッズの大活躍のおかげで戦力面での影響は小さかったが、金銭面での被害が甚大だった。元々が3年契約のため、コックスに支払った金額は移籍金も含めると700万ドル(7億円以上)と言われ、峰岸球団社長が「授業料にしては高すぎた」とコメントした。 Embed from Getty Images |
44 シェーン・バワーズ
投手 在籍期間:2001~02 アメリカ合衆国/1971年7月27日生/右投右打 |
【NPB】50試合7勝21敗0S 防御率4.08 BB/9 3.1 K/9 6.4
【MLB】5試合0勝3敗0S 防御率8.05 BB/9 3.8 K/9 3.3 ============ 選手紹介 ============ 歴代の助っ人投手たちの中ではよく投げた元先発右腕。ベイスターズでの2年の間にバワーズが残した投手成績は7勝21敗・防御率4.08だった。 この成績に対する評価は分かれている。決して打ち込まれていたわけではなく、チームの戦力不足ゆえに白星に恵まれなかったとする見方もある一方、先発投手としての役割を十分に果たせていないと批判する声もあった。特に打線が2巡目を迎えるとスタミナ不足なのか被打率が大きく悪化し、リリーフ陣に負担を強いる傾向が目立っていた。 バワーズの退団から2年後、同じラストネームを持つセドリック・バワーズが入団。先代バワーズの大きく負け越した成績が忌み嫌われ、登録名は「セドリック」とされた。 |
42 ジェイソン・ターマン
投手 在籍期間:2002 アメリカ合衆国/1975年11月10日生/右投右打 |
【NPB】9試合0勝2敗0S 防御率6.16 BB/9 3.3 K/9 6.2
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ 2002年にシアトル・マリナーズ傘下の3Aから加入したメジャー経験のない長身投手。身長は208cmもあり、当時はジャイアント馬場(209cm)に次ぐ日本プロ野球史上2位タイの長身投手として注目された。アメリカ時代に付けられた「ビッグ・ワーム(巨大ミミズ)」のニックネームは本人も気に入っていた。ただし迫力あるヒゲが特徴的な風貌とは裏腹に、酒もタバコもやらない真面目な性格だった。 150km/h台の速球や長身を生かしたカーブ、スライダー、チェンジアップを駆使し、オープン戦の前半は評価が高かった。しかし公式戦に入る頃には投球フォームの癖がバレ、球種を見抜かれるようになっていた。シーズン開幕後は、2試合続けて試合序盤にKOされた。それ以降はリリーフに降格し、1勝も挙げられないままシーズン途中の7月末に解雇された。 |
25 アーニー・ヤング
外野手 在籍期間:2002 アメリカ合衆国/1969年7月8日生/右投右打 |
【NPB】32試合 打率.173 安打19 本塁打8 OPS.676
【MLB】288試合 打率.225 安打179 本塁打27 OPS.688 ============ 選手紹介 ============ 2000年のシドニー五輪でアメリカ代表の4番を務めた巨漢スラッガー。メジャーリーグでは通算288試合に出場し、キャリアハイは1996年にオークランド・アスレチックスで記録した141試合・19本塁打。 ベイスターズには2007年シーズン途中に加入した。当初期待されていた新外国人グランが極度の不振に陥ったため、緊急補強的に迎えられた。加入直後のデビュー戦では早速4番に座り、いきなりホームランを放つ華々しいスタートを切った。しかしその後は打率1割台と低迷。球がバットに当たることなく、シーズン終了を待たずして退団した。 アメリカに帰国後もヤングはホームランバッターとして野球を続け、2007年まで3Aでプレーを続けた。マイナーリーグでは通算319本塁打を記録し、メジャー・マイナー、日本プロ野球を合わせた通算出場試合数はちょうど2000試合に達した。引退後は指導者になり、プレミア12や東京オリンピックの代表コーチを任されている。 2021年東京オリンピックのアメリカ代表コーチとして来日したヤング(左)Embed from Getty Images |
35 ボイ・ロドリゲス
外野手 在籍期間:2002 プエルトリコ/1966年4月14日生/右投左打 |
【NPB】138試合 打率.262 安打118 本塁打18 OPS.789
【MLB】メジャー経験なし ============ 選手紹介 ============ 台湾とメキシカンリーグでホームラン王のタイトルを獲得した実績を持つプエルトリコ出身のスラッガー。打力が最大の武器だった。 2002年に横浜ベイスターズに在籍し、チームトップの18本塁打・60打点を記録。7月にはサイクルヒットも達成する活躍を見せた。しかし、年齢や助っ人としての物足りなさを理由に解雇されるという、やや理不尽な扱いを受けた。 横浜退団後、翌年に韓国のロッテ・ジャイアンツと契約し、アジア3大プロ野球リーグを制覇。しかし、韓国ではわずか7試合の出場に終わった。横浜時代のサイクルヒットも含め、意外とファンの記憶に残りにくい選手だった。 |
4 マイク・グラン
内野手 在籍期間:2002 アメリカ合衆国/1970年12月18日生/右投右打 |
【NPB】67試合 打率.226 安打56 本塁打10 OPS.674
【MLB】11試合 打率.000 安打0 本塁打0 OPS.167 ============ 選手紹介 ============ セカンドを守れるため”ポスト・ローズ”として期待された。67試合の限られた機会で10本塁打を打ったが、ある試合では5打数5三振を記録し、ひどいフリースインガーっぷりは打線の切れ目になってしまった。 |
38→42 マーク・ホージマー
投手 在籍期間:2001 アメリカ合衆国/1969年8月20日生/左投左打 優良助っ人 |
【NPB】6試合0勝2敗0S 防御率9.00 BB/9 5.7 K/9 4.7
【MLB】94試合2勝5敗1S 防御率7.69 BB/9 4.2 K/9 5.7 ============ 選手紹介 ============ メジャーではほとんどがリリーフ起用だったにも関わらず、ベイスターズには貴重な先発左腕として期待されて入団した。沖縄・宜野湾での春季キャンプの帰り道、捨てられていた子犬を拾って育てていたというエピソードを皮切りに、素晴らしい人柄という好評価が定着していった。 ただ、肝心の投手成績は6試合登板で0勝2敗・防御率9.00に終わり8月に解雇。シーズン中に背番号を38から42へ変更する(当時活躍していたヒルマンやバンチを意識したものとみられる)ゲン担ぎを行うも、結果には結びつかなかった。 ちなみにベイスターズ入団よりも前には、1998年に千葉ロッテと契約成立しかけたが、左肩の故障を理由に自ら契約を白紙に戻し、受け取った契約金を全額返金したという善人エピソードがある。 |
00 アンソニー・サンダース
外野手 在籍期間:2001 アメリカ合衆国/1974年3月2日生/右投右打 |
【NPB】14試合 打率.114 安打5 本塁打1 OPS.386
【MLB】13試合 打率.240 安打6 本塁打0 OPS.656 ============ 選手紹介 ============ プロスペクトランキングのTop100には入らなかったものの、オリンピックの米国代表に選出されるなど一定の期待を受けていた選手。1997年、マイナー時代にスキー事故で妻を亡くす悲劇を乗り越え、1999年に念願のメジャーデビューを果たした。 サンダースがメジャー定着できずに苦しんでいた2001年、横浜ベイスターズはローズが抜けて開幕から低迷していた。迫力不足となった打線の強化のため、シーズン途中にサンダースを獲得。背番号00を与えられたが、一軍では打席の約半分で三振を喫し、日本の野球に適応できず退団となった。 引退後は指導者として活動。2015年と2019年のプレミア12で米国代表のコーチを務め、2020年にはボルティモア・オリオールズの一塁ベースコーチに就任した。 |
49 ジョン・ズーバー
内野手 在籍期間:2001 アメリカ合衆国/1969年12月10日生/左投左打 |
【NPB】92試合 打率.310 安打72 本塁打2 OPS.801
【MLB】68試合 打率.250 安打34 本塁打3 OPS.696 ============ 選手紹介 ============ 同時期に来日したドスターとセットで語られることが多い元一塁手。見た目はパワーヒッターっぽいが、実際には選球眼に優れる長打力に乏しい粘り強いタイプの打者だった。マイナーでは通算で三振を上回るフォアボールを記録している。 ベイスターズでもその傾向は変わらず、29三振に対して30四球を記録。打率.310とハイアベレージを残したものの、期待されたローズの穴埋め役としては2本塁打にとどまり物足りなかった。ドスターとズーバーで合計11本塁打と期待外れの結果に終わり、2人とも退団となった。 |
4 デーブ・ドスター
内野手 在籍期間:2001 アメリカ合衆国/1970年10月8日生/右投右打 |
【NPB】112試合 打率.272 安打84 本塁打9 OPS.720
【MLB】138試合 打率.233 安打47 本塁打4 OPS.639 ============ 選手紹介 ============ ローズ退団後の正二塁手として期待された内野手。メジャー通算138試合の出場経験があり、セカンド以外にショートやサードも守れるユーティリティ性を持っていた。 ローズが必ずしも長距離ヒッターではなかったため、アベレージヒッターのドスターに後継者として期待が集まった。しかし、レギュラーシーズンでは打率.272、9本塁打、OPS.720と平凡な成績に終わった。特に得点圏打率が2割を下回り、シーズン中盤には「チャンスに弱い」との評価が定着。重要な場面ではピンチヒッターに種田を送られる打席が増えた。 Embed from Getty Images |
23 ロバート・ローズ
内野手 在籍期間:1993~00(ロッテ03) アメリカ合衆国/1967年3月15日生/右投右打 大活躍 期待以上 |
【NPB】1039試合 打率.325 安打1275 本塁打167 OPS.933
【MLB】73試合 打率.245 安打49 本塁打5 OPS.710 ============ 選手紹介 ============ 横浜ベイスターズ史上最高の助っ人と評される右打ちの強打者。同時期に日本球界入りしたブラッグスとともにベイスターズ打線の中核を担った。 1993~2000年までの8年間にわたってベイスターズに在籍し、打率.325・167本塁打・762打点を記録。特に1998年にはキャリアハイの37本塁打を放ち、リーグMVP級の活躍でチームを38年ぶりの日本一に大きく貢献した。二塁手ながらパンチ力と高いバットコントロールは球界でも抜きんでていた。 一方で、グラウンド外での彼にはユニークな一面もあった。8年も日本に住みながら、日本食にはまったく馴染めなかったというエピソードが残っている。 お騒がせといえるエピソードも複数残している。ベイスターズを退団後、2003年に突如千葉ロッテに電撃加入したものの、開幕を迎える前に退団、現役を引退した。時が経って2023年11月には、九州の独立リーグ・火の国サラマンダーズの監督に就任したかと思えば、翌2024年2月、家庭の事情を理由に退任が決定。1試合も指揮を執らずに起こした退団劇は、千葉ロッテ加入時のことを思い起こさせた。 |
22 ラファエル・ベタンコート
投手 在籍期間:2000 ベネズエラ/1975年4月29日生/右投右打 WBC2006 |
【NPB】11試合1勝2敗0S 防御率4.08 BB/9 3.5 K/9 5.0
【MLB】680試合38勝37敗75S 防御率3.36 BB/9 2.2 K/9 9.5 ============ 選手紹介 ============ ベイスターズ時代には目立った活躍を残せなかったものの、退団後にアメリカで驚異的な成長を遂げ、MLBを代表するタフネスリリーバーへと進化した速球派投手。 メジャーへ挑戦するため佐々木主浩がシアトル・マリナーズへ移籍した2000年、穴埋め役としてベイスターズに加入した。しかし、本来リリーフ適性が高いベタンコートだが先発としてもスポット登板させられるなど、適材適所とは言えない起用法をされた不運もあった。結果は一軍11試合で1勝2敗・防御率4.08と振るわず、わずか1年で退団となった。 アメリカのマイナーリーグに戻ったベタンコートはトミー・ジョン手術を受けたのち、クリーブランド・インディアンスに拾われた。そこで制球力を大幅に向上させ、速球派ながら与四球率の低い安定したピッチングを身につける。2003年にメジャーデビューを果たすと、瞬く間にセットアップマンとしてチームのブルペンを支える存在へ成長し、2007年にはリーグタイ記録となる31ホールドを記録。リリーバーとしての地位を確立した。 2009年シーズン中にはコロラド・ロッキーズにトレード移籍。多くの投手が苦戦するクアーズフィールドを本拠地にしながらも、その安定感は揺るがず、やがてクローザーとしても活躍する。最終的にメジャー通算680試合に登板し、防御率3.36を記録。60試合以上投げたシーズンが6度もあるなど、その酷使に耐える頑丈さから「ラバーアーム」と称された。 日本では実力を発揮しきれなかったが、その後の活躍は異国の地で異なるベースボールを経験したことにより、MLBで開花した代表的な例となった。 Embed from Getty Images |
25 ルー・メローニ
内野手 在籍期間:2000 アメリカ合衆国/1971年4月6日生/右投右打 |
【NPB】42試合 打率.213 安打20 本塁打1 OPS.562
【MLB】423試合 打率.271 安打294 本塁打14 OPS.716 ============ 選手紹介 ============ ボストン近郊のフレーミングハム出身の元内野手。1998年、ボストン・レッドソックスでメジャーデビューを果たし、初打席で本塁打を放ち注目を集めた。しかし、その後はメジャーと3Aポータケットを頻繁に往復する日々が続き、その移動の多さから地元メディアに「メローニ・シャトル」と揶揄されるほどだった。昇降格に嫌気が差したのか、1999年オフに横浜ベイスターズとの契約を決断した。 メローニはセカンドを本職としながらも、ショートやサードもこなせるユーティリティ性が長所の1つだった。だが、当時のベイスターズにはタフな守備陣(ロバート・ローズ、石井琢朗、進藤達哉)がおり、満足に出場機会を得られなかった。打撃では選球眼に優れていたが、当時の野球界はまだ出塁率の価値が理解されていなかった時代だった。 退団後は再びレッドソックスに復帰すると、今度はベンチ要因ながらも通年メジャーに帯同するレベルに成長した。その後のメジャーでの活躍を考えると、他のNPB球団に入っていれば普通に成功していたかも…と思えてならない。 |