東京ヤクルトスワローズ 歴代助っ人外国人②(1999年以前)


MLB名鑑.com NPB助っ人外国人一覧

Tokyo Yakult Swallows
東京ヤクルトスワローズ
セントラル・リーグ

外国人名鑑1999年以前
【1990年代までに在籍した外国人選手】
【1980年代までに在籍した外国人選手】
【1970年代までに在籍した外国人選手】
【国鉄スワローズ(1950~65年),サンケイアトムズ(66~68年)時代に在籍した外国人選手】
◇1990年代までに在籍した外国人選手
マーク・エーカー
投手 アメリカ合衆国/在籍:1998~99
 身長203cmの巨体だったため、テリー・ブロスのように主力投手として投げてほしいと期待された右投げ投手。マイナーを含めてほとんどリリーフ登板しかしていないのに、スワローズでは先発で起用された。そのせいか右肩を痛めて1年しか投げられず、2年目の途中で退団した。

 一軍での成績は12試合で0勝2敗・防御率2.34。打線の援護に恵まれなかったが、防御率が示す通り安定感はあった。アメリカ時代は名クローザーだったデニス・エカーズリーの後任に期待されていた。

リッチ・バチェラー
投手 アメリカ合衆国/在籍:1999
 ケガばっかりしていたエーカーを諦め獲ってきた技巧派右腕。1999年の途中から入団し、7試合投げたところで右膝の半月板を損傷。手術するためアメリカに戻り、そのまま解雇された。防御率は7.94だった。

 アメリカでプロ入りする前、大学3年生の年にホワイトソックスからドラフト7巡目指名されたがこれを拒否。翌年はヤンキースから38巡目で指名された際は期限内に契約せず、5年生の年にしばらく経ってからドラフト外でヤンキース入りしている。

マーク・スミス
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1999
元有望株
 1999年のスワローズは若松監督が新たに就任し、外国人野手を一新してスタートさせる。ホージーとアンソニーを切って入団させたのは、マーク・スミスとあのペタジーニ。

 1991年のドラフト1巡目・全体9位の高順位でプロ入りし、92年のBaseball Americaの有望株ランキング57位に掲載。ピッツバーグ・パイレーツ時代の1997年7月に0対0の延長10回裏にサヨナラ3ランを放ち、メジャー史上初の延長ノーヒッターを成立させたことがある。MLB通算414試合・8年メジャーでプレー経験のあるスミスの方が格上と見なされ、当時はペタジーニより期待されていた。

 日本では開幕直後は絶好調。1試合3ホーマーを打った試合を含め、4月だけで打率.312、8本塁打をマークしていたが、5月に入ると弱点を露呈。インハイの速球で起こされ逃げる変化球で三振…を繰り返した。シーズントータルで20本塁打を放つも、最後まで日本のストライクゾーンに戸惑っているようだった。

 アメリカに戻ってからはメジャー昇格はできなかったが、帰国翌年に炎上車から男性を助け出し、野球関係の非営利団体から表彰を受けた。

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ドゥエイン・ホージー
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1997~98
期待以上
 キャンプやオープン戦で守備、打撃両方ともボロボロで、野村監督や評論家の大半から辛口評価を受けていた。しかしレギュラーシーズンが始まると打ち始め、小さな身体から左右両打席で長打を放った。外野守備は相変わらずだったが…。最終的に松井秀喜に競り勝ち予想外のホームラン王になってしまった。ただし内情は9月に入ってから苦手なインハイを突かれ、シーズン終盤と日本シリーズではブレーキになっていた。翌シーズンも打撃不振を引きずり退団した。

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トラビス・ドリスキル
投手 アメリカ合衆国/在籍:1998
問題児
 登録名を巡ってひと悶着あった先発右腕。スワローズ側が”kill”に聞こえるのを嫌って入団当初はドリスキーで登録したが、開幕前に本来の発音に近いドリスキルに直してプレー。先発と中継ぎどっちつかずの起用法に怒り、野村監督に暴言を吐いてシーズン中に解雇された。

 来日前は最高位3Aのマイナーリーガーだったが、スワローズ退団から丸4年。31歳にしてメジャーデビューを果たすと5年間で57試合登板の実績を作った。

エリック・アンソニー
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1998
元有望株
 生まれはサンディエゴだがヒューストンで育ったアンソニーは、地元の高校に進むも中退。ライン工をして働いていたときにアストロズのトライアウトがあり、そこで特大ホームランを何本も放ってスカウトたちを驚かせた。全くの無名だったためドラフト34巡目の低順位で入団すると、マイナーのどの階級でも長打を量産。メジャー昇格を目前に知名度が上がり、Baseball Americaのプロスペクトランキングで全体8位の高順位にランクイン。1990年のランキングはBAがTop 100をやり始めた元年であり、その記念すべきリストにはMLB殿堂入りするフランク・トーマスや300本以上のグレッグ・ボーン、モー・ボーンがアンソニーよりも下に名前が載っていた。

 1999年のスワローズでは助っ人野手が揃って不振。ホージーは成績を落とし、ムートンを解雇して代わりにアンソニーを加入させた。7月から一軍でプレーし、44試合で12本もの柵越えを記録。得点圏でコンスタントに打った。メジャー通算78本塁打、アストロズ時代にレギュラーを務めた実力は伊達でなかったが、1番の問題はケガの多さ。小さなケガでスタメンから外れる試合も多く、これが原因で契約更新されなかった。


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ライル・ムートン
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1998
 193cm/108kgの見るからに大きな当たりを打ちそうな黒人外野手。シカゴ・ホワイトソックスでメジャーデビューし、1年目に打率3割超を記録してからスタメン出場を続けた実績から、打線の中軸にと大きく期待された。だが開幕3戦目に審判に暴言を吐いて退場になると、日本のストライクゾーンに慣れることができず、6月にウェーバー公示された。

 前年に打ちまくっていたテータムを退団させて獲ってきた選手だっただけに、スワローズファンの心中も穏やかではなかった。

テリー・ブロス
投手 アメリカ合衆国/在籍:1995~97(西武98~99)
期待以上
 入団1年目に巨人相手にノーヒッターを達成し、14勝5敗・防御率2.33と大活躍。日本シリーズでも好投し、下馬評の低かったスワローズの日本一に大きく貢献した。2年目以降は身長206cmの大きなモーションを盗まれるようになり、成績を落としていった。1998年にライオンズに移籍しても成績は上向かなかった。

 現役を引退後はゲイロードスポーツ社に入り代理人に転身。マーク・マルダーやブロンソン・アローヨ、ダン・ウグラといったオールスター選手たちを担当した。

ジム・テータム
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1997
 外国人枠がもう1人あれば残留していた惜しい助っ人。夏前にルイス・オルティスを諦めたスワローズが、代役として急遽連れてきた。1997年はホージーのキャラクターが目立っていたが、途中加入のテータムも明るい性格の選手だった。なお、1971年に在籍していたジャービス・テータムとは全く無関係。

 ブロスとホージーに阻まれ出場機会は限定されていたが、51試合で打率.309・13本塁打・OPS1.030と率系ではMVP級の打撃成績。レギュラーで出ていればホージー以上のスタッツだった。

 MLB時代の実績は5年・173試合。途中出場がほとんどだったが、新球団のコロラド・ロッキーズで放った自身メジャー初ホームランは球団第1号の満塁ホームランでもあった。

ルイス・オルティス
内野手 ドミニカ共和国/在籍:1997
 ホセ・カンセコのトレード相手の1人だったドミニカ共和国出身内野手。3Aで打ちまくっていたところをスワローズが獲得した。登録名をルイスにする予定だったが、巨人に入団決定したばかりのルイス・デロサントスがルイスにすることを先に発表してしまったため、オルティスで登録することになった。

 当初はホージーよりも期待されていたが、シーズンに入ると持ち前のバットコントロールは鳴りを潜め、変化球がまったく当たらなかった。

トーマス・オマリー
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1995~96(阪神91~94)
大活躍
 タイガースで4年連続打率3割超を打ちながら「長打力が足りない」と難癖をつけられ、自由契約になってスワローズに入団した。移籍後は見返すかのように初のシーズン30本超えを果たし、チームの日本一に大きく貢献した。

 スワローズでの2年目が終わると、野村監督が巨人を退団した落合博満獲得を熱望していることを知り、退団する道を選んだ。翌シーズンにテキサス・レンジャースのSTに招待選手として参加したが、メジャー登録枠に残れず引退した。


 ⇒阪神タイガース(1999年以前)参照

ヘンスリー・ミューレンス (登録名:ミューレン)
外野手 キュラソー/在籍:1995~96(ロッテ94)
元有望株 優良助っ人
 キュラソー出身、NPB初のオランダ生まれの選手になった強打の元内野手。1994年に千葉ロッテで及第点の成績を残したが解雇され、翌年からスワローズでプレー。フリースインガーだが当たれば飛ぶバッティングスタイルで、恐怖の8番打者として恐れられた。

 千葉ロッテ時代はメル・ホールからイジメに遭い、スワローズに移籍してからもヤクルト対中日の試合があるときはわざわざ敵軍ベンチに現れ嫌がらせが続いた。ただミューレン本人はスワローズでは野村監督からナイスガイだと褒められ、チームメイトからも人格者として一目置かれる存在だった。現役引退後は指導者の道に進み、複数のメジャー球団でベンチコーチや打撃コーチを務めたほか、WBCやプレミア12のオランダ代表監督も任された。

Embed from Getty ImagesWBC本大会を前に記者会見するミューレンス監督
ジャック・ハウエル
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1992~94(巨人95)
元有望株
 カリフォルニア・エンゼルス時代にヤクルトに来ることになるデシンセイから三塁手のレギュラーを奪い、3年間連続で20本前後を記録。通算84本のパワーヒッターだったが、1992年にスワローズ入りした。

 1年目は日本式の練習が辛すぎたのか、春季キャンプをたびたび脱落。前半戦のホームランは8本に留まり、オフにはクビかと思われたが、オールスター明けから突然爆発。61試合で30本を叩き出し、打率.331とあわせて打撃2冠を獲得。ベストナインだけでなくセ・リーグMVPにも選ばれた。

 2年目は数字を落としたものの、打率.295・28本塁打と主砲として及第点の成績。相手投手から警戒され、三振より多い91四球を選んだ。だが、3年目はさらに成績が下降。20本塁打を放ったが守備力を考えるともっと打ってほしかった。野村監督に愛想をつかされて退団後、巨人に拾われた。

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ジェラルド・クラーク
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1994
 近鉄バファローズで大活躍したフィル・クラークの兄。2人は歴代323組目の兄弟メジャーリーガーでもある。サンディエゴ・パドレスと新球団コロラド・ロッキーズで3年レギュラーを務め、3年連続2ケタホームランを打った実績を持つ。足は速くないがメジャー時代にホームスチールを決めたことがある。

 スワローズでは99試合に出場して打率.293、ホームラン20本。ハイライトはカープの佐々岡から手首にデッドボールを受け、暴行を働き1週間出場停止になったことか。スタッツ的には良かったが、しょっちゅう膝や背中などを痛めて欠場していたのが悪印象で、契約延長されなかった。

 1994年のスワローズといえば、クラークが退場した翌日に古田敦也が手にファウルチップを受けて骨折。巨人のグラッデンと殴り合いの乱闘劇で2人退場になったのもこの年で、いつも主力の誰かが欠場していた。セ・リーグ4位に終わり、つば九郎のデビューイヤーは少々残念な年となってしまった。

レックス・ハドラー
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1993
優良助っ人
 ミミズを生食いして気色悪がられたユーティリティ内野手。1989年のパリッシュはワニを食べて変人扱いされていたが、ハドラーの方はミミズのほかにもセミやカタツムリもいけるゲテモノ食い。セントルイス・カージナルス時代にはキャップについたカブトムシのような昆虫を食ったら800ドルやると同僚に煽られて、その場で食べてドン引きさせた実績がある。

 ただ、明るい性格はチームに好影響を与え、日本の文化にも馴染もうと努力しており、人間的にはチームメイトから好かれていた助っ人だった。

 スワローズでは1年間で打率.300・14本塁打・OPS.838をマーク。チャンスに強い打撃も光ったが、野村監督が重視するセカンドの守備はボロボロだった。

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ジョニー・レイ
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1991~92
大物
 飯田哲也がプロ野球を代表する名センターになる一因となった元大物メジャーリーガー。メジャーでは10年間プレー。パイレーツとエンゼルスの二塁手のレギュラーを務め、シルバースラッガー賞やオールスター出場を経験。シーズン打率3割が3回あり、ホームランを打てなくても二塁打が多く、生涯成績で四球>三振を記録している選手だった。

 1991年に来日。スワローズはなぜか外野で起用しようとしていたが、契約時にそんな話は聞いていないとレイが拒否。大リーグ時代と同様セカンドで出場し続け、1年目は打率.299・11本塁打・OPS.842と健闘。最終戦まで打率3割をキープしていて、二塁打もリーグ最多を打っていた。

 2年目は開幕直後にスランプに陥ると、内野のベンチ要因だった桜井伸一がブレイク。出場機会を減らされたことでレイと野村監督の溝が深まってしまった。表向きは腰痛という理由でシーズン途中に退団していった。

 一方、捕手で入団後にセカンドへ挑戦していた飯田は外野手に転向するほかなかった。が、万事塞翁が馬というのか、その後は広い守備範囲を活かした名センターへと成長。また飯田だけでなく、レイ退団から2年経った頃から土橋勝征が台頭し、セカンドのレギュラーに定着する流れができた。

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ジョニー・パリデス
内野手 ベネズエラ/在籍:1992
 メジャーでは60試合出場にとどまるが、マイナーで盗塁を量産していた小柄な内野手。1992年途中に退団したレイの後任にスワローズ入り。守備と走塁が魅力も打撃が課題と言われ、NPBでも打率.242・OPS.657と活躍できなかった。

 退団後は40代でガンに罹り、10年以上の闘病したのち亡くなった。

郭建成
投手 台湾/在籍:1989~91
 1988年のソウルオリンピックに出場した台湾人右腕。五輪の翌年からスワローズに所属し、89~91年に在籍した。

 1年目はパリッシュとデービスの壁に阻まれ二軍生活だったが、イースタンでは最優秀救援投手に選ばれる活躍。2年目はバニスターが途中で帰国し、後から来たロックフォードが酷かったためようやく郭に一軍登板のチャンスが巡ってきた。が、コントロールは良かったが球威に乏しく、被安打率が3割を超え一発病の気もあった。二軍で通用していたフォーシームとスライダーがどちらも上では打ち込まれた。

 負け運が強い投手で、スワローズ時代の1990年も打ち込まれたとはいえ、1勝もできない(0勝4敗)内容ではなかった。台湾に帰国後のCPBL・時報イーグルスでも防御率3.21ながら9勝17敗と大負けした。その後クローザーに転向してようやく成功したかと思った矢先、”黒鷹事件”と名付けられている台湾球界最悪の八百長事件に関与し実刑判決が下る。居場所を求め、台湾人としては異例の中国本土で野球を続けた。

ティム・バートサス
投手 アメリカ合衆国/在籍:1991
 身長201cm・体重110kgの巨漢投手。オークランド・アスレチックスでの新人時代に先発で10勝6敗をマークしたときはもっとスリムな体系だったが、体重増加が彼のキャリアを阻んだ。来日したときは、ファストボールの平均球速が130km/hしか出ないがコントロールも悪い軟投派になっていた。

 スワローズではNPBデビューして早々、ドラゴンズ戦で小松崎への内角球を巡って乱闘を起こしてしまう。1試合だけ完封を達成したがそれ以外はKO続きだった。

フロイド・バニスター
投手 アメリカ合衆国/在籍:1990
大物
 MLBドラフト全体1位でプロ入り後、133勝・7年連続2ケタ勝利を挙げた超大物メジャーリーガー。バブル景気に沸いていた日本では、ヤクルトのような貧乏球団でもこの時だけはカネの力で現役メジャーリーガーを連れてくることができた。ただ、バニスターに関しては訳あり物件で、前年に痛めた肩がまだ治りきらないまま来日を迎えた。4月に3勝を挙げたもののそれ以降は勝てず、6月に解雇された。

 息子のブライアン・バニスターもメジャーの先発で活躍後、来日。巨人に入団したものの地震が怖くて帰国した、あのバニスターである。

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マイク・ロックフォード
投手 アメリカ合衆国/在籍:1990
 バニスターが訳あり物件だと判明して6月に帰国したため、とにかく健康に投げられるピッチャーを最優先事項に獲ってきたのがロックフォード。身長190cmを超える恵まれた体格を持っていたが、動く速球は常時135km/h前後、カーブとチェンジアップ、スライダーを低めに集める完全な軟投派左腕だった。

 来日デビュー戦は、初物に弱いと言われたジャイアンツを相手に初回を三者凡退に打ち取ると、2回に掴まり4被弾KO。次の登板以降も長打を浴び続け、23イニングで9本もの本塁打を浴びた。シーズン途中入団ながら終了前に解雇された。

ドウェイン・マーフィー
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1990
超大物
 オークランド・アスレチックス時代にリッキー・ヘンダーソンと1・2番コンビを組み、ヘンダーソンの盗塁成功に大きく貢献。強肩も兼ね備えるセンターとして1980~85年に6年連続ゴールドグラブ賞を獲得、打撃でも通算166本塁打を打っている。超大物メジャーリーガーであるが、30代中盤あたりから膝が思うように回復せず、走塁と守備面で衰えを隠せなくなっていた。

 スワローズにはダン野村氏の紹介で入団。「センターラインの強化」を掲げ、ホームラン王のパリッシュを放出してまでマーフィー獲得に漕ぎ着けたが、膝が治りきっていない状態でプレーし続けたため打撃・守備両面で低迷した。夏に入る前には起用されなくなり、8月に解雇。

◇1980年代までに在籍した外国人選手
ホアン・アイケルバーガー
投手 アメリカ合衆国/在籍:1989
問題児
 大物のパリッシュを獲得して予算がなくなったスワローズは、ユマキャンプでの入団テストを経て低年俸のアイケルバーガーと契約。クローザーを任されたが開幕2戦目の9回にサヨナラ暴投。以降もマウンドに上がるたびに失点し、5月半ばに解雇された。

 日本ではわずか8試合・実質1ヵ月半しかプレーしなかったが、名前と衝撃的なデビュー戦のせいで頭から離れない助っ人外国人選手であった。なお、息子のジャレッド・アイケルバーガーもプロ入りしたがマイナー最高位はA-、2年しかプレーしなかった。

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ロン・デービス
投手 アメリカ合衆国/在籍:1989
大物
 MLB通算130セーブを挙げたユダヤ系アメリカ人の大物メジャーリーガー。予算をケチって獲得したアイケルバーガーが1ヶ月半しかいなかったため電撃契約。このレベルを連れてこれるなら初めからそうすれば良かったのに、と思わずにはいられない。

 ニューヨーク・ヤンキース時代にセットアップマン、ミネソタ・ツインズ時代はクローザーとしてマウンドに上がり、通算481試合に登板。先発起用ゼロにも関わらず2度もシーズン100イニング以上を投げている。オールスターにも1度選出。

 5月でアイケルバーガーを解雇し、空席になっていたクローザー役を与えられた。シーズン終了まで在籍したが、防御率3.97・WHIP1.55と勝ちゲームを任せるには問題ありの成績に終わった。銀のフレームの眼鏡とパリッシュの乱闘に参加したプレー以外の方がファンの記憶に残っている。

 息子のアイク・デービスは野手でメジャーデビュー。2012年に32本塁打、WBCのイスラエル代表、マイナー落ち後にピッチャー転向といった話題性にあふれる選手だった。

Embed from Getty Images背番号39を好んでつけていたR・デービス
ラリー・パリッシュ
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1989(阪神90)
大物 問題児
 MLB通算256本塁打のほか、3イニング連続本塁打、週に3回グランドスラムといった記録を持つ超大物メジャーリーガー。オールスターにも2度出場経験がある。15年メジャーの一線級で活躍し続けていたが、レッドソックス在籍中の1988年にヒザの故障が原因で打撃成績を落としていた。

 1989年にスワローズに加入すると、期待に違わぬ長打力を発揮。42本塁打を放ってホームラン王に輝いた。ただ、「センターラインの強化」を掲げた野村監督の方針から、まさかの1年で自由契約に。翌年はセシル・フィルダーを失ったタイガースが新4番候補に迎え入れた。

 普段は紳士と評判ではあったが、三振に倒れるとベンチで大暴れするタイプで、専用のラリー君人形をサンドバッグ役にしてストレスの捌け口にしていた。私生活ではワニを食べる習慣があったが、都内にワニを出すお店が見つからず苦労していた。

⇒阪神タイガース(1999年以前)参照

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ボブ・ギブソン
投手 アメリカ合衆国/在籍:1988
 ヘッドハンターの異名を取り、メジャー殿堂入りを果たした名投手… じゃない方のボブ・ギブソン。メジャー通算98試合、短期間だが先発とクローザーを両方経験したことがある元メジャーリーガーだった。

 1988年、ケガで早々にいなくなったハーパーの外国人枠穴埋めのため急遽来日。6月に初登板した試合で、同じく初めてNPBの打席に立った呂明賜に初打席初ホームランを許してしまう。それ以降、頭数が足りないスワローズの先発ローテを最後まで守り通したが、リーグワーストの防御率4.87を喫した。

ダグ・デシンセイ
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1988
大物
 ホーナー退団後に来日した端正な顔立ちだった超大物メジャーリーガー。MLBでの実績はホーナーを上回り、rWARは41.7を記録している。

 ボルティモア・オリオールズにドラフト3巡目で入団後、在籍中はサードのレギュラーとして活躍。カル・リプケンJr.と縁があり、メジャー昇格前の3Aの試合前、球場に銃弾が撃ち込まれ、まだ10代だったリプケンJr.を安全な場所に引っ張って行ったエピソードがある。また、1981年オフにデシンセイがトレードで放出されると、翌年からリプケンJr.はメジャーに定着。1998年9月まで2632試合連続出場を続ける大記録の起点となった。

 1982~87年をアナハイム・エンゼルスでプレー。移籍1年目にキャリアハイとなる打率.301・30本・OPS.916の好成績を残し、MVP投票3位に入りシルバースラッガー賞も受賞。翌83年にはオールスターに選ばれている。エンゼルスでも長く三塁手のレギュラーを務めたが、87年に若手のジャック・ハウエルに出場機会を奪われたことが決め手となり、スワローズ入りが実現した。

 来日時点で38歳になっていたデシンセイだったが、東京ドーム開園第1号やNPB史上初の2試合連続逆転サヨナラホームランを記録。ジャンカルロ・スタントンを控えめにしたようなクローズドスタンスから”逆方向に引っ張る”ホームランは記録より記憶に残った。打率は低かったが84試合で19本塁打はさすが大リーガーと言える。

 引退後は自身を日本送りにしたハウエルが巨人と契約すると、彼の代理人を務めた。不動産会社を設立し実業家としても活躍していたが、2010年代に入ってからは未公開株を巡るインサイダー取引を行ったとして有罪に。

Embed from Getty Imagesカリフォルニア・エンゼルスの正三塁手としてプレーしたデシンセイ

テリー・ハーパー
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1988
 ホーナーの代役にとスワローズが連れてきた黒人外野手。奇しくもホーナーと同時期にアトランタ・ブレーブスに所属し、7年も在籍したがレギュラーらしいシーズンは1度だけ。第4・5の外野手扱いが長かった。

 1988年にホーナーの代役にスワローズ入り。前任者が大物だと過度な期待をされるものだが、10試合出場したところで右膝が痛いと治療のため帰国。そのまま現役引退した。

マーク・ブロハード
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1986~87
 2AのテキサスリーグでMVPに選ばれ、メジャーではレギュラーになれなかったが6年在籍。通算25ホーマーの実績を買われてスワローズと契約、背番号3を与えられた。

 日本には1986~87年に在籍。1年目は打率.258・21本塁打、フリースインガーな打撃スタイルであれば物足りない成績ではあったが、レギュラーシーズン終盤の巨人戦でリーグ優勝を阻止する逆転弾を放った。

 2年目は開幕から打撃好調。11試合で打率.379・OPS1.127を記録していたが、開幕後しばらくしてチームがボブ・ホーナーを獲得。レオン・リーとホーナーで外国人一軍枠が埋まり、二軍降格を拒否して退団していった。なお、背番号3は翌年プロ入りした長嶋一茂が付けることになった。

Embed from Getty Images1982年にブリュワーズでア・リーグ制覇。右が決勝タイムリーを放ったセシル・クーパーを祝福するブロハード
レオン・リー (登録名:レオン)
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1986~87(ロッテ78~82,大洋83~85)
 ⇒千葉ロッテマリーンズ(1999年以前)参照

ボブ・ホーナー
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1987
大物
 アリゾナ州立大在籍時に新設されたゴールデンスパイク賞を最初に受賞。ドラフト全体1位で指名され、マイナーリーグの試合に1度も出ることなくメジャーデビューを果たすと新人王を獲得。アトランタ・ブレーブスの4番ファーストを9年間守り続け、オールスター1度、30本塁打以上3度、通算215本を記録した。だが、当時メジャーでは球団が結託してFA選手を締め出す動きがあり、メジャー球団との契約が難しくなったせいで超大物メジャーリーガーが来日することになった。

 ヤクルトでは最初の3試合で6ホーマー。たちまちホーナー旋風を巻き起こし、シーズン全体で打率.327・31本塁打・OPS1.106と格の違いを見せつけた。ただ、ファン投票で選ばれたオールスターを腰痛で辞退し、レギュラーシーズンは93試合出場にとどまった。

 NPBで1年プレーし終えると、4番打者獲得が急務となっていたセントルイス・カージナルスからのオファーに合意。メジャー復帰を果たしたが、ブレーブス時代より広いブッシュスタジアムでのプレーに苦しみ、わずか3本塁打に終わって解雇された。

 引退後はエネルギー事業に手を出し大損をこいたが、日本に来るきっかけとなったFA制度を巡りメジャー選手会が球団から賠償金を勝ち取り、”被害者”だったホーナーにも700万ドルが支払われ破産せずに済んだ。

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ボビー・マルカーノ
内野手 ベネズエラ/在籍:1983~85(阪急75~82)
優良助っ人
 8年もの期間阪急ブレーブスの黄金期を支え、1983年に移籍してきた助っ人二塁手。スワローズには衰えが見えてきた33歳の時点で入団したが、3年間で52本塁打、打率は阪急時代より高い.289と変わらぬ打撃成績を残し、Bクラスに低迷するチームで奮闘した。

 退団後は巨人の中南米担当スカウトに就任し、サンチェを連れて来ると退団するまで通訳を務めた。肺がんを患い1990年に39歳の若さで死去。阪急時代の元チームメイトたちに見送られた。

 イタリア系ベネズエラ人だが祖先が日本人だったという噂があった。

⇒オリックス・ブルーウェーブ(1999年以前)参照

クリス・スミス
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1984~85
元有望株
 南カリフォルニア大学時代は名の知れた有望株だったスイッチヒッター。大学1年から全米代表に選ばれ続け、選抜チームでもずっと3番を打っていた。1977年にアメリカ遠征に来ていた日本代表と戦い、その縁で江川卓や原辰徳と知り合った。江川とはルームメイトになったため親友になったと言われている。

 日本では… 1984年は春先早々に全力疾走を怠ったことで武上監督を怒らせ、二軍に塩漬けにされそうになった。だがスミスには幸いなことに、チームは負けが込んで2度も監督が交代すると、スミスの懲罰的二軍調整はご破算に。晴れて出場機会を得たスミスだったが、打撃不振が続き打率.214・5本塁打・OPS.605に終わった。

 問題なのはスワローズ球団の方で、この成績でなぜか契約を延長。85年は投手並みの打撃成績(打率.158・0本・OPS.404)しか残せず、今度こそ解雇された。

 日本でプレーしたのはヤクルトでの1984~85年のみだったが、意外と日本の生活を気に入ったらしく、アメリカに帰国して数年後に野球と関係なく日本で暮らしていたらしい。なお、父親は2000年まで40年以上MLB球団で仕事をした名スカウト。

アンディ・ビーン
投手 アメリカ合衆国/在籍:1985
 身長190cmから上半身投げのような投球フォームで投げていた長身右腕。その怪しいメカニクスはやはり問題で、三振を上回る四球を出してしまった。8試合に登板して防御率7.25とまったく活躍できず、途中で肩を痛めて帰国した。

ダン・ブリッグス
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1982~83
 好守で精彩を欠くハーローをオールスター前に解雇し、代わりに取ってきたのがブリッグス。1982~83年に在籍した。1年目に4番を任され、3ホーマーを打った試合があったがシーズントータルでは平凡な成績に終わった。

 来日前の経歴は、MLB7年で5チームを渡り歩く苦しいメジャー生活だった。メジャー初ホームランをロイヤルズのエース右腕スティーブ・バズビーから記録すると、MLB通算12本のうち6本ものアーチをオールスター経験者から放っている。

デービッド・デントン
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1982
 メジャー経験が無いスイッチヒッター。2年間大活躍したデーブ・ヒルトンがユマキャンプのテスト経由だったため、スワローズではユマで引き続き入団テストを実施。そこで目に留まったのがデントンだった。

 開幕前、とある日のオープン戦で一発を放つと、地方球場のちょっとしたイベントでホームラン賞なるものをゲットした。日本ではHRを打つと賞金が出るものと勘違いしたのか、打撃スタイルをホームラン狙いに変更。もとはアベレージヒッタータイプのデントンはフォームを崩し、結局一軍公式戦では1本塁打に終わった。

ラリー・ハーロー
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1982
 メジャーで448試合に出場経験があった実績充分の外野手。スワローズでは外野の守備が特にひどく、シングルヒットをスリーベースにしてしまったり、お手玉や落球と拙守を連発した。

 俊足巧打に外野3ポジションを守れる守備力を兼ね備えているとの前評判だったが、そんな完璧な選手が日本に来るはずがなかった。

チャーリー・マニュエル (登録名:マニエル)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1976~78,81(近鉄79~80)
大活躍 優良助っ人
 史上最凶助っ人ペピトーンは帰国後アメリカのメディアに対し、日本でのネガティブなことを吹聴していたせいで、アメリカでは日本球界を悪く思うようになっていた。ある日のNYタイムズに掲載された日本下げの一方的な記事が掲載されると、これを読んだ太平洋クラブライオンズ(当時の西武ライオンズ)のマーティ・キーナート氏が激怒。MLB全球団に書簡を送った。そこにはペピトーンが日本で起こしてきた数々の問題行動のほか、彼の退団後に日本球界やファンの間で外国人選手排斥論が起きていたことが書かれていた。

 MLB球団関係者にペピトーンの悪行が知られると、中でも両国間の関係悪化を最も憂慮したのが当時のドジャース会長だったピーター・オマリー氏であり、マイナー落ちした選手たちのなかから人格的に優れた選手をヤクルトに譲り渡すことを提案。それがマニュエルだった。

 スワローズでは”赤鬼”と呼ばれ、1976~78年の3年間で92本塁打を放った。78年はベストナインを獲得する活躍だったが、機動力を重視する広岡監督から嫌われ、近鉄バファローズに放出されてしまった。近鉄で2年連続ホームラン王を獲得した後、広岡が去ったスワローズに復帰したものの顎のケガや年齢による衰えに勝てなかった。

 日本でのプレー期間はヤクルト、近鉄あわせて計6年。NPB通算成績は打率.303・189本塁打・491打点。リー兄弟やバースと並ぶ、日本球界最高の助っ人外国人の1人となった。

 引退後はマイナーで指導者経験を積み、3度もマイナーの最優秀監督に選出。フィラデルフィア・フィリーズの監督時代にはワールドシリーズ制覇を達成する大物監督になった。

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ジョン・スコット
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1979~81
期待以上
 長身でスタイルの良かった俊足好守の外野手。メジャーでは通算118試合出場。主力としてプレーしたことはないが、1977年に新球団トロント・ブルージェイズでは開幕戦で1番打者で起用され、球団初のバッターになったことで知られている。

 ヤクルトには3年在籍。1年目に記録した28本塁打・81打点はいずれもチーム最多。5月にダブルヘッダーで2本ずつホームランを放ち、それが2ラン、満塁、ソロ、3ランと打っており、後に”サイクルホームラン”を打った選手と言われるようになった。

 2年続けてダイヤモンドグラブ賞(GGの前身)を受賞したように外野守備にも優れたプレイヤーだったが、3年目の5月に甲子園での試合で外野フェンスに激突。左ひざの靱帯を損傷してしまい、復帰できないまま球団からクビを言い渡された。自慢の守備力が日本でのキャリアに終止符を打つ形となってしまった。

サム・パラーゾ
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1980
 ヒルトン二世と期待された俊足遊撃手。二遊間を守れる高い守備力を誇った。メジャー経験がほとんどなかったため当初は疑いの目を向けられていたが、日本でプレーしてみると走攻守すべてに通用する好選手だった。

 118試合に出場して打率.281・15本塁打に四死球は三振を上回り、1番バッターとしては合格点の成績だった。盗塁失敗が多かったから1年で退団したとされているが、真偽のほどは不明。退団後はアメリカで指導者の道に進み、ボルティモア・オリオールズの監督になった。

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◇1970年代までに在籍した外国人選手
デーブ・ヒルトン
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1978~79(阪神80)
優良助っ人
 独特な打撃フォームが特徴的だったユーティリティ内野手。ヤクルトにはユマキャンプで入団テストを受けて来日した。初年度から1番バッターとして活躍。シーズンを通じて首位打者争いを演じ、先頭打者ホームラン8本の記録は2007年に高橋由伸に破られるまで日本最多を保っていた。

 2年目は本塁打こそ19本を放つも打率が低下。オフに自由契約になると、阪神で監督を務めていたブレイザーから熱心に誘われてタイガースへ移籍し、辛いシーズンを過ごすことになる。

⇒阪神タイガース(1999年以前)参照

ロジャー・レポーズ (登録名:ロジャー)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1974~77(太平洋73)
大物 大活躍
 低打率だが圧倒的なパワーを持っていたスワローズの主砲。エンゼルスでレギュラーを数年務め、メジャー通算82本の実績を持つ。1973年に太平洋クラブに入団したが、右膝のケガで満足にプレーできず1年で解雇。その年のオフに入団テストを受けてスワローズ入りした。

 大振りな左打席から期待通りの長打を放ち、4年間で110本塁打。メジャー時代と太平洋クラブでは典型的なパワー一辺倒な選手だったが、スワローズでの2年目以降は打率.260以上を維持する確実性を身につけた。大物打ちのイメージから守備が良くないと思われているが、メジャーでは堅実な守備を評価される外野手だった。

ジョー・ペピトーン
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1973~74
超大物 問題児
 1973年シーズン途中に鳴り物入りで加入し、日本球界最悪の助っ人外国人だと認識されている元大物メジャーリーガー。MLBでオールスター出場3回にゴールドグラブ賞3度、ヤンキースやカブスで活躍した輝かしい実績を持つ。特にヤンキースでは4番を務めたこともあるが、その一方でかなりのトラブルメーカーとしても知られていた。

 ヤクルトアトムズでは打撃不振に陥ったロバーツに代わる新助っ人として大いに期待された。だが、度重なるトラブルやサボタージュ、無断帰国と問題行動を繰り返し、シーズン終了前に解雇された。

 その後アメリカ球界に戻るもメジャー復帰はならず、以降はコカイン所持や飲酒運転などの犯罪行為で度々逮捕された。2023年に死去したが、21年にはミッキー・マントルが500号を達成したバットを巡って野球博物館と訴訟沙汰になっていたことが明らかになり、最後まで波乱に満ちた人生であった。

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デーブ・ロバーツ
内野手 パナマ/在籍:1967~73(近鉄73)
大活躍 優良助っ人
 1967~73年途中まで在籍して181本塁打を放ったレジェンド助っ人内野手。弱小アトムズ打線の主軸を担い、王貞治とホームラン王を争った。一緒に上位打線を組んだルー・ジャクソンとはMLB時代にヒューストン・コルト45sで一緒にプレーしていた間柄でもある。

 元メジャー経験者でありながら日本語学校に通い、シーズンオフも日本に残って上智大学で学ぶマジメ外国人だった。

アルト・ロペス
外野手 プエルトリコ/在籍:1972~73(東京・ロッテ68~71)
 ヘクター・ロペスという元大物メジャーリーガーかと間違われて毎日オリオンズに入団し、大活躍したことで有名なプエルトリカン外野手。オリオンズで4年間クリーンナップを打っていたが、当時監督だった大沢親分のチーム改革の一環でアトムズにトレードされた。

 今でこそ神宮球場は12球団中1,2を争う打者有利な球場であるが、当時は広い方の部類に入っていた。オリオンズ時代は両翼の膨らみがほとんどない激狭球場の東京スタジアムに慣れてしまっており、移籍後はマズい外野守備と打撃成績低下でオリオンズ時代ほどは活躍できなかった。

⇒千葉ロッテマリーンズ(1999年以前)参照

ジャービス・テータム
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1971
 1968年にカリフォルニア・エンゼルスでメジャーデビュー。3年で300打席近くチャンスを貰ったがホームランを1本も打つことができず、レッドソックスへトレード移籍。レ軍では1度もメジャーに上がれずスワローズに入団した。

 日本でもシーズントータルで打率.192・1本塁打とパワーレスな結果に。外野フライを追いすぎてフェンスに激突し、左足に大ケガを負ったのがNPB最後のプレーだった。

◇国鉄スワローズ(1950~65年),サンケイアトムズ(66~68年)時代に在籍した外国人選手
ボブ・チャンス
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1969~70
 シーズン中に死亡したジャクソンの穴埋めに急遽入団することになった元メジャーリーガー。1シーズン2ケタ本塁打(14本)を放った年があるが、メジャー定着を果たせず日本行きを決意した。

 1969年8月に来日してすぐに試合に出始め、このシーズンは55試合で打率.320・16本塁打と大健闘。空振りが少ないヒッティングスキルが存分に発揮された。だが、チャンスに強いのは1年目だけだったようで、翌年はなぜか急に打てなくなった。

 ちなみに、この1970年はヤクルトアトムズが勝率.264を記録してぶっちぎりの最下位になった年。正捕手が飲酒運転で逮捕されたり、所属選手が失踪したりと全てが散々なシーズンだった。

ルー・ジャクソン
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1966~69
優良助っ人 問題児
 「褐色の弾丸」の異名を持つアスリートタイプの外野手。ラインドライブヒッターであったため年間30本は打てなかったが、早いスイングスピードから打プルヒッティングする癖があった。下半身のケガが多かったが明らかにアウトになるゴロでも全力疾走を怠らなかった。

 実働3年間で329試合・打率.257・68本塁打・OPS.793を残したが、4年目の開幕前に緊急搬送され、肝機能障害と膵臓壊死で33歳の若さで死去した。日本に付いて来てくれなかった夫人との離婚問題を抱え、酒と女遊びで私生活は荒れ放題だったと言われている。

ローマン・マヒナス
外野手 キューバ/在籍:1966
 サンケイアトムズに1年だけ在籍したキューバ人外野手。MLBではヒューストン・コルト45sの新球団拡張ドラフトで移籍し、初年度(1962年)にチーム最多の24ホーマーを放ったことで知られる。メジャー経験豊富だが来日した時点ですでに41歳、丸1年実戦から遠ざかっている選手だった。

 アトムズでの最初の試合で頭に死球を食らってしまう。シーズン終了まで後遺症に苦しみ、MLB通算54本塁打のスラッガーは日本では0本塁打に終わった。ただ、当時の元メジャーリーガーにしては珍しく、日本を見下すような態度はしない選手だったそうだ。

宮本敏雄
外野手 米領ハワイ準州/在籍:1963~64(巨人55~62)
日系人
 国営企業を母体にする体面上、国鉄スワローズは選手補強を控えめにせざるを得なかったが、一方で球団の運営費用は年々増加。そのため、1962年に球団譲渡を前提としてフジサンケイグループと業務提携が結ばれる。資金に余裕ができたスワローズはトレードで大型補強を行い、その1つが巨人から獲ってきた宮本敏雄だった。

 ハワイ準州出身で「エンディ宮本」と呼ばれ、巨人時代はアイドル的人気を誇った外野手。スワローズでの1年目に11本塁打を放つも、翌年は0本。1965年、チームの経営権が国鉄からサンケイに本格移譲されるタイミングで引退を決めた。

⇒読売ジャイアンツ(1999年以前)参照

西田亨
投手 米領ハワイ準州/在籍:1963(巨人52~53,55,東映58~59,毎日60~62)
日系人
 「ビル西田」の愛称で呼ばれていた日系ハワイ人投手。何度かアメリカに戻りながら巨人と東映フライヤーズ、大毎オリオンズを経て入団。4球団目のスワローズでは1年だけ在籍して引退。帰国後はハワイに戻り整体師になった。