MLB名鑑.com NPB助っ人外国人一覧
【1990年代までに在籍した外国人選手】 【1980年代までに在籍した外国人選手】 【1970年代までに在籍した外国人選手】 【広島カープ(1950~67年)時代に在籍した外国人選手】 |
◇1990年代までに在籍した外国人選手 |
フェリックス・ペルドモ
内野手・投手 ドミニカ共和国/在籍:1992,96~99 |
カープアカデミーから1992年に広島に入団したが、春先に大怪我を負い入院が必要となり、わずか2ヶ月足らずで契約解除となった。その後、台湾の時報イーグルスで修行し、1996年にカープに再入団した。 1年目はウエスタンリーグの首位打者に輝いたが、足首の捻挫で離脱寸前だった野村謙二郎からポジションを奪うことができず、ほとんどが二軍生活だった。シーズンオフには本格的に投手の練習を始め、2年目には公式戦に出場。4月15日の巨人戦で投手デビューを果たし、19日には4イニングのロングリリーフを無失点で切り抜け、初勝利を挙げた。1999年に選手登録を内野手に戻したが、代打で出場後にマウンドに上がることがしばしばあった。 1999年6月の巨人戦では、ミンチー、ペルドモ、デハートの3投手のリレーが実現した。当時の一軍外国人投手の登録は2人までであったため、このグレーな選手起用は物議を醸した。 |
ティモ・ペレス
外野手 ドミニカ共和国/在籍:1996~99 |
明るいキャラクターの元カープアカデミー生。スピードが一番のウリで、外野守備と一塁手もソツなくこなし出場機会増をアピールしていた。 カープには1995年に練習生として帯同。翌年に支配下登録されると1年目から一軍に引き上げられ、様々な打順で起用された。96~99年に在籍して227試合。さぁこれからというタイミングで本人がメジャー挑戦を希望していると打ち明ける。98年オフにポスティングでのメジャー移籍に失敗(入札が無かった)し、翌シーズン後に自由契約となる道を選んで米球界へ飛び込んでいった。 ニューヨーク・メッツと契約したペレスは2000年に早くもメジャー昇格を果たし、新庄剛志と同じ外野のフィールドを守った。2005年に在籍したホワイトソックスでは井口資仁とともにワールドチャンピオンの一員に。 Embed from Getty Images |
リック・デハート
投手 アメリカ合衆国/在籍:1999 |
マイナー下部では先発メインで投げていたが、2A昇格後にリリーバーに転向。メジャーデビューを果たし、通算50試合以上に登板した。左のリリーバーを探していたカープが1999年のシーズン途中に獲得した。 来日してすぐに一軍に迎え入れられたが、イニング数の倍以上の安打を浴びる厳しい登板が続いた。日本では6試合の登板だったが、僅差の終盤に木村拓也が正捕手と交代する不可解采配の際にバッテリーを組まされたり、突然1試合だけ先発したり起用法に振り回される不運はあった。 Embed from Getty Images |
レイビー・グスマン
投手 ドミニカ共和国/在籍:1997~98 |
カープアカデミー出身の長身右腕。日本では”アントニオ・グスマン”で登録されていた。一軍昇格のチャンスがないまま2年で解雇、アメリカに渡りメジャーを目指したが最高位は2Aだった。
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アレハンドロ・ディアス (登録名:ケサダ)
外野手 ドミニカ共和国/在籍:1998 |
まさかのポスティングシステム利用者第1号となった元アカデミー生。パワーヒッティングが持ち味で将来の主軸候補と期待され、二軍のオールスターでMVPを受賞。後半戦で一軍に昇格すると打率.311・3本塁打・OPS.809と結果を出した。ただ、この年限りでMLBを目指して退団し、落札したレッズ傘下で5年間プレーするも2A止まりだった。
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アルフォンソ・ソリアーノ
内野手 ドミニカ共和国/在籍:1996~97 元有望株 WBC2006 |
カープアカデミーからメジャーのスタープレイヤーに成り上がった元オールスター二塁手。カープでは2年間で一軍出場は9試合だった。3年目の契約更新前に代理人の団野村氏が現れ、4倍の昇給を求めて年俸調停を申請。球団側が勝利すると任意引退選手になる選択をし、ヤンキースとマイナー契約を結んだ。 1999年の終盤にメジャーに初昇格し、初安打をホームランで記録。2001年にチャック・ノブロックから二塁手のレギュラーを奪い、ワールドシリーズでも活躍した。2004年にA-Rodの超大型トレードに巻き込まれてレンジャースに放出されてしまうがハイレベルなプレーは変わらず、4球団目となったカブス時代には外野手へのコンバートに成功し、常にトッププレイヤーであり続けた。 2014年に引退するまでに積み上げた実績はオールスター7年連続7度、シルバースラッガー賞4度、盗塁王1度、412本塁打。1年しか在籍しなかったナショナルズでは46本塁打・41盗塁を記録し、ホゼ・カンセコ、バリー・ボンズ、A-Rodに次いで4人目の40-40クラブ入り。前の3人がいずれもステロイド疑惑があったため”初めてクリーンな”選手だと称賛され、ナショナルズファンからは残留を希望する運動が起こった。殿堂入りこそならなかったが色褪せない実績を残した。 Embed from Getty Imagesカープアカデミーからこんなスタープレイヤーが誕生するとは |
ホセ・マルチネス
投手 ドミニカ共和国/在籍:1997 |
(調査中)
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ロビンソン・チェコ
投手 ドミニカ共和国/在籍:1992~93,95~96 元有望株 期待以上 問題児 |
カープアカデミー生では最もカープで成功したドミニカン先発右腕。と言っても活躍したのは1年だけ、お騒がせで負の側面も大きかったが… ドミニカンカープアカデミーから1992年に来日。94年に派遣先の台湾・時報イーグルスで実績を残すと、95年にカープで覚醒。プロ初登板の阪神戦を完封するとオールスター前までに10勝を挙げ、いきなり球宴選出。15勝8敗・防御率2.74・166奪三振の好成績をマークした。ただ、後半戦に入ってからは登板数に応じたボーナスをたびたび要求するようになり、シーズンが終わる頃には球団と大きな溝ができていた。 ストーブリーグに入るとチェコは代理人にダン野村氏を立て、MLB挑戦を求めてカープに契約破棄を通知。訴訟沙汰に発展し、ダン野村氏からは週刊誌に自身の正当性を主張するなど大騒動になった。 結局選手側の主張は認められず、もう1年カープでプレーすることになったが、96年のチェコは明らかにやる気を失っていた。5月の阪神戦でノーヒッター未遂の快投があった以外は淡白なピッチングが目立ち、6月に故障離脱したのを最後に一軍に戻ることはなかった。97年にレッドソックスと契約を結び、念願のメジャーデビューも果たしたものの3年間で16試合・3勝5敗・防御率7.61に終わった。 |
フェリックス・ラミレス (登録名:ラミーレス)
投手 ドミニカ共和国/在籍:1995~96 |
カープアカデミー生のリリーフ左腕。95年に練習生の身で来日してすぐに支配下登録され、ウエスタンで多く経験を積む。翌年は背番号111→73に出世し、シーズン中の一軍デビューが現実味を帯びてきていた。だが本人の中ではもっと自己評価が高かったらしく、開幕前に二軍に割り振られたことにショックを受け、開幕を待たずに退団してしまった。 その後はレッドソックスとマイナー契約を結んだものの2年で解雇され、1年だけ台湾でプレーした。なお、NPB公式では1976年生まれになっているが台湾やアメリカでは75年生まれで統一されている。 |
フランシスコ・デラクルーズ
投手 ドミニカ共和国/在籍:1996 |
アストロズ傘下のDSL球団でプレーした後、カープアカデミーに所属していた速球派スターター。190cmの長身に長い腕から150km/hに迫る速球を投げていたが、体重80kg未満の下半身の弱さから壊滅的なコントロールが課題だった。 1996年にカープに入団し、ウエスタンリーグで先発ローテに定着。130イニング中97個もフォアボールを出していたが、19試合・6完投に防御率3点台を記録した。シーズンオフにヤンキースとの契約問題で揉め、結局退団して翌年メジャーデビュー。アカデミー経由の有望選手をチームに定着させられない、カープアカデミーが抱える問題点が浮き彫りになる選手であった。 |
ルイス・メディーナ
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1993~95 元有望株 |
三振かホームランかの二択しかない、生粋のパワーヒッター。カープでは3年在籍。初年度はオープン戦で大爆発も開幕直後に肩を骨折、通年を棒に振った。2年目は7月に月間MVP受賞の活躍のおかげで打率.271・本塁打14・打点70とそれなりの成績を残したが、3年目は腰を痛めて低迷した。 日本に3年いながら影が薄かったメディーナだったが、特にアメリカ時代は特色のある選手だった。高校卒業後、コミュニティカレッジを経て強豪アリゾナ州立大へ進学。1985年にプロ入りするまでの5年間で7度ドラフトにかかっている(※当時は年に2度実施していた)。また、アリゾナ州立大ではスイッチヒッターに挑戦するも断念、左投右打になった。メジャー通算では51試合・10本塁打と結構なハイペースでホームランを打っていて、特にデビューイヤーの1988年は56打席で6本塁打。トミー・ジョンから放った1試合2ホーマーや、1-0で迎えた終盤にノーヒットノーランを破る一発を放っている。 カープを退団後はDバックスで5年働いたあと、カンザスシティ・ロイヤルズの組織に25年以上在籍。スカウトやマイナーのコーチ、監督、GM補佐と何でもこなし、ロイヤルズのフロントオフィスに欠かせない存在になっている。 |
古河有一(ジョー古河)
内野手 日本/在籍:1993~95(横浜96~99) |
アメリカ国籍を持つスイッチヒッターの内野手。日本生まれだがアメリカで過ごし、大学をカリフォルニア大学バークレー校→アーバイン校へと進学。1992年のシーズンオフの時期に、在学中に父親の知人のツテでカープの入団テストを受けることになった。弟と一緒に受けたがジョーだけが合格。前年にドラフト外入団のしくみは廃止されていたが、特例でドラフト外の形でカープと契約した。 外国人枠の対象外だったが、それでも長打力不足は否めず3年で自由契約となった。96年以降は横浜ベイスターズでプレーを続け、引退後にスカウトに転身。マーティ・ブラウンが監督のときには専属通訳も務めている。 Embed from Getty Imagesダルビッシュの通訳も務めていたジョー古河氏(会見席右) |
マーティ・ブラウン
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1992~94 優良助っ人 |
1992~94年にカープに在籍。1年目に19本、2年目には27本塁打を放ったが、それ以上に走塁、外野守備でのハッスルプレーが印象的なプレイヤーだった。 現役引退後は指導者の道へ。2004年にベースボール・アメリカからマイナー最優秀監督に選出された。2006~09年には監督として広島に帰還。4年間で8回退場宣告を受けた。 Embed from Getty Images「ベース投げ事件」後のTシャツは話題に |
カルロス・リベラ
投手 ドミニカ共和国/在籍:1994 |
カープアカデミー出身者で初めて1軍に昇格した男。先発右腕。日本では140km/h後半止まりだったが来日前に150km/hを計時している。フォーシームとスライダーが持ち球だった。 ドミニカ共和国から1989年にアナハイム・エンゼルス傘下のRookie級で投げた後、カープアカデミーに所属。94年にカープと支配下契約を結び、背番号109を背負ったまま一軍デビュー。2試合・防御率7.71と出番は少なかった。 翌シーズンに入るとクビを切られたわけではないが、CPBL(台湾プロ野球)の時報ホークスに派遣される。ここで才能が開花。95~96年と2年続けてオールスター出場&2ケタ勝利の大活躍。1年間メキシカンリーグを挟んで98年には統一ライオンズで12勝4敗・防御率2.72をマーク。CPBLでは異なるチームで2ケタ勝利を挙げたのは、近鉄に在籍したウィル・フリント以来2人目。だが、なぜか統一と契約更新せず退団すると、リベラは野球を辞めてドミニカでタクシー運転手になった。 |
アンヘル・バティスタ (登録名:バウチスター)
投手 ドミニカ共和国/在籍:1992 |
1992年、一足早く来日していたペルドモがケガで病院送りとなり、退団。代役としてバティスタ、サンギルベルト、ペレスを新たに広島へ向わせた。 アカデミーの中でも優れた3人が選ばれて来たはずだが、お世辞にもNPBでやれるレベルではなかった。どうもアカデミー生のモチベーション低下を防ぐために、夢を見させる目的で来日させていたというのが濃厚である。 3人中最も早く正式契約に漕ぎつけたバティスタだが、最も”育成レベル”の選手だった。二軍でも試合に出してもらえず、わずか2ヶ月で退団。帰国後は野球をやった形跡がなく、ベースボール・リファレンスに彼の名前は載っていない。 |
マリオ・サンギルベルト
投手 ドミニカ共和国/在籍:1992 |
カープアカデミーというところはドミニカの有望選手を発掘する場所であるが、連れてきたものの日本で使えないと判断すると台湾に派遣する(お下がりを譲る)ということもやっていた。サンギルベルトはその代表格。1992年に来日初期メンバーとしてカープと正式契約するも、速球とカーブしか使えないため一軍に上がれず、CPBL(台湾プロ野球)に送り込まれた。 1994~95年に時報イーグルスでプレー。先発を任され2年間で7勝10敗、2年とも三振以上のフォアボールを献上。カープに送り返されるたが再契約は見送られ、その後はメキシカンリーグで1年だけプレーした。 |
ルイス・ペレス
内野手 ドミニカ共和国/在籍:1992 |
カープアカデミーから来日した初期メンバーの1人。背番号103を与えられるも早くも5月に契約解除。カープには2ヶ月しか在籍しなかった。 1994年に台湾の時報イーグルスに派遣され、遊撃手を中心に1年だけプレー。手のケガで戦線離脱があったうえ、242打席中フォアボールを4個しか選ばない粗すぎる打撃を見せてしまい解雇された。 |
ロッド・アレン
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1989~91 期待以上 問題児 |
カープに3年間在籍、登録名は「ロデリック・アレン」だった元外野手。メジャー経験は少ないがパワーは本物で、NPBで4打席連続本塁打や1試合で代打満塁本塁打とサヨナラ本塁打を記録した。1989~90年に2年続けて打率3割もマークしており、打撃面で期待以上の活躍だった。 一方で2年目の大洋ホエールズ戦で秋元捕手を負傷退場させ、その後の報復死球にキレた試合は球史に残る出来事に。大門投手を追い回した乱闘シーンは珍プレー好プレーでよく流された。また、解説者に転じていた2018年には放送中に実況アナを殴り、日米でニュースになってしまった。還暦間近になっても失せない闘争心に驚きを禁じ得なかった。 Embed from Getty Images解説者としては優秀だった (左がアレン) |
タイ・バン・バークレオ (登録名:バークレオ)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1991(西武87~90) |
デストラーデにレギュラーを奪われライオンズを退団後、カープが獲得。小早川毅彦との開幕スタメン争いを制したが、シーズン全体では小早川以上に不振に陥っていた。ウエスタンでは大活躍だったが… ⇒西武ライオンズ(1999年以前)参照 |
ウェイド・ロードン
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1989~90 |
風貌が銀行員のように見えた白人内野手。メジャー定着が叶わず1989年からカープでプレー。変わった打撃フォームや細身の体格から疑問符を付けられていたが、打率.300・22本塁打に加えてゴールデングラブ賞を受賞。周囲の雑音を吹き消した。 ただ2年目のシーズンでは4月だけで7失策。これが打撃にも影響を及ぼして攻守で低迷すると、この年新加入のマイク・ヤングに一軍枠を奪われ、退団。真面目な選手だったと言われている。 |
マイク・ヤング
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1990 |
MLBで4年間レギュラー級の立場を守り、通算72本塁打を記録した長打の外野手。確かなメジャー経験からポスト山本浩二を期待されたが調子は上向かず、2年契約ながら1年で解雇された。 アレンが大門投手を追いかけた大乱闘シーンでは、同じ黒人選手のヤングをアレンと見間違えて止めにかかる選手が出た。 |
◇1980年代までに在籍した外国人選手 |
ランディ・ジョンソン
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1987~88 |
1987年に来日したユーティリティータイプの内野手。パワーはないがヒッティングツールに優れ、三振が少ない打撃が持ち味だった。 来日1年目に規定打席未満ながら打率.319をマーク。シーズン後に衣笠祥雄の引退で正サードが空き、翌年はレギュラーかと思われたところで故障離脱。治している間に内野全ポジションが埋まってしまった。同時期に在籍したランスに比べると(名前は派手だが)地味であった。 |
リック・ランセロッティ (登録名:ランス)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1987~88 |
三振かホームランか、の傾向が激しい長距離砲。強烈なパワーをウリにマイナーで3度ホームラン王を獲得。それでも空振りの多さと守備力を疑問視され、メジャー昇格の機会に恵まれず1987年に来日した。 日本でも引っ張り一辺倒のスタイルを維持し、1年目に39本塁打でホームラン王と同時にリーグ最低打率と最多三振を記録。2年目は打撃不振とフロントとの行き違いが影響して退団。8打点を挙げた試合もあり、カープファンには今でも根強い人気を誇っている。 ちなみにマイナー通算268本ものアーチを架けたランスだが、ひどい誤報に巻き込まれている。カープ退団後にレッドソックス傘下でメジャー返り咲きを狙っていたランスは、通算255本を放った時点でボストン・グローブ紙からマイナーリーグ最多記録だと報じられた。だが本当の1位は”メキシコのベーブ・ルース”ヘクター・エスピーノの484本(当時メキシカンリーグはMLB組織に入っていた)であり、アメリカ本土に限定してもバズ・アーレットが432本も打っている。実際にはトップ20にも入っていなかったランスだが、誤報だと判明したのはCNNやUSAトゥデイなど各媒体の取材を受けた後だった。 |
ティム・アイルランド
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1983~84 |
ハッスルプレーで人気を博した元内野手。広島カープには2年間在籍。内野の名手・木下富雄とポジションを分け合い、準レギュラーのような立ち位置でプレーした。打撃成績は平凡だったが隠し玉を何度か成功させている。応援歌のメロディーは”ふたりの愛ランド”だった。 現役時代はメジャー通算で11試合、わずか8打席とほぼマイナー暮らしだったが、引退後は指導者やスカウト職で活躍。傘下のマイナー球団では監督を歴任したほか、コロラド・ロッキーズのスカウト時代には台湾人初のMLB投手となる曹錦輝(チンフェイ・ツァオ)を獲得している。 |
デーブ・レーシッチ
投手 アメリカ合衆国/在籍:1984 |
非日系のピッチャーではカープ初の外国人。アメリカでは先発登板も可能なリリーバーでイニング跨ぎが得意だったが、カープではなぜかワンポイントリリーフのような使われ方をしていた。左腕だからだろうか? 弟のゲーリーが2年後に中日ドラゴンズに入団。弟はドラゴンズの主軸として大活躍し、体重約95kgと強打者の体格をしていたのに対して長身痩躯なデーブは”The blade”という愛称が付けられていて、あまり似ていない兄弟だった。 |
レスリー・フィルキンス
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1983 |
ライトル退団後のクリーンナップ候補として入団した元マイナーリーガー。最高位は3年ほどAAAでプレーしていた。日本ではオープン戦の段階で変化球が打てない弱点を露呈。ファーム暮らしが続き、1軍ではわずか2本塁打に終わった。 ちなみにレス・フィルキンスがプロ入りしたのは1975年のドラフト1巡目・全体3位の高順位だったが、この75年ドラフトはメジャー史に残る不作の年だと認識されている。全体1位指名のダニー・グッドウィンは通算rWARマイナスを叩き出し、1986年に南海ホークスに移籍。フィルキンスを含めた全体2~5位の選手たちに至っては、いずれもメジャー昇格すら果たせなかった。 |
ジム・ライトル
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1977~82(南海83) 大活躍 |
広島カープ史上最高の外国人外野手。1977年にカープに入団し、1年目から衣笠祥雄、山本浩二とともにクリーンアップを形成。1979~80年の連続日本一に貢献した。特に80年の日本シリーズでは打率.400・3本塁打・6打点の大爆発でMVPを獲得している。また強肩も大きな魅力で、4年連続ゴールデングラブ賞を獲得。在籍期間は6年間に達し、非日系人では外国人選手最長。プレイスタイルと人格面ともに欠点が無い、カープの最も代表的な優良助っ人といえるだろう。
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アート・ガードナー
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1981~82 |
メジャーで3シーズン昇格し、1977年には開幕スタメンで出場するもメジャー定着を果たせなかった元外野手。カープでは1981~82年に在籍。1年目は打率.281・26本塁打・77打点と好成績ではあったが下位打線が中心だった。2年目は相手バッテリーから徹底マークを受け打撃不振に陥った。そこそこ足が速かったがアメリカ時代から暴走グセがあり、カープでは13盗塁に対して18回も失敗している。
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マイク・デュプリー
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1980 |
フィーバー平山が連れてきた二刀流選手。マイナー時代まで投手と野手両方で試合に出場していたほどハイシーリングな才能があった。大学では投手兼外野手だったのがプロでは内野手として育成され、途中でまた外野に戻ったりと器用さがアダとなり成長しきれなかった。打撃技術にも多少問題を抱えていた。 結局メジャーでは1年だけリリーフ投手として出場。12試合で防御率9点台と壁に阻まれ来日した。 カープ入団前に投打どちらでやっていくか意見が分かれたが、平山は俊足強肩を活かしたプレーを期待したことで、外野手専任でやることになった。開幕戦でサヨナラホームランの鮮烈なデビューを果たし、自慢の強肩を活かして山本浩二、ライトルと鉄壁の外野陣を形成。その一方で打撃面では長打力に欠けた。シーズントータルで10本塁打だったが、3年で102本塁打を放ったエイドリアン・ギャレットの後釜としては物足りなかった。 ちなみに、雨天中断時にホームにヘッドスライディングするパフォーマンスを最初にやったのがこのデュプリー。1980年7月の神宮球場の試合開始が雨で遅れるなか、ヒマを持て余した選手たちがこのパフォーマンスを思いついたところデュプリーが実行。本当にホームベースへ飛び込むと古葉監督らが彼に賞金を出した。 |
◇1970年代までに在籍した外国人選手 |
エイドリアン・ギャレット
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1977~79 大活躍 優良助っ人 |
カープの外国人選手初の40本塁打をマークした優良助っ人。ライトルと一緒に1977年に加入し、シェーンとホプキンスという大穴を塞いだ。78年に40本塁打をマーク。4月に月間15本塁打の新記録を作り、この年は広島市民球場でのオールスターでは1試合3本塁打を放って球宴MVPに選ばれた。また、本職は外野手だったが緊急時に12試合キャッチャーで出場。同僚から「日本人以上に義理と人情が分かる男」と言われる人間性も兼ね備えていた。 来日時点で34歳と高齢だったが、3年間で102本塁打。引退後は主にメジャー傘下の球団でコーチを長く務めた。なお、元中日のウェイン・ギャレットは実の弟。 |
ゲイル・ホプキンス
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1975~76(南海77) 期待以上 優良助っ人 |
野球と医学の両方で成功を収めた天才プレイヤー。1975年の広島カープ初優勝に大きく貢献した。選手時代から大学院や日本の大学のプログラムを継続して研究を続け、引退後に整形外科医院を開業。彼の2人の子供も医者に育て上げた。 オクラホマ州出身だが南カリフォルニアの高校に通い、大学もペパーダイン大に進学。バスケットボールの奨学生だったが、在学中にシカゴ・ホワイトソックスと契約。大学院に通いながら公式戦に出場し、1968年にメジャーデビュー。大物選手ではなかったが、通算1400打席に立って160四球・83三振とメジャーでも指折りの三振を奪いにくいバッターとして知られた。一時期レギュラーをこなしたシーズンがあったが、1974年にメキシコの医大に合格した時点でMLBと学業の両立が不可能になり、同年9月の入学に備えて野球をやめる決断をしていた。 ところが新たにカープの新監督に就任したルーツ監督から、非常に熱心な勧誘を受ける。9月に退団すれば医大のカリキュラムに間に合う計算から、チームが優勝争いから脱落したら帰国できる条件でカープ入団が決まった。この頃までのカープは最下位脱出が目標になるぐらいのお荷物球団だった。 ホプキンスが入団した75年は直近3年連続で最下位だったことに加え、外国人の新監督ということで周囲は誰もが最下位を予想した。それが、この年から斬新な赤いヘルメットに変わり「赤ヘル旋風」を巻き起こし、ペナントレースは中日・阪神と三つ巴の接戦に。ホプキンスも日本で試合に出続け、カープはついに優勝してしまった。来日1年目は打率.256・33本塁打・91打点。もう1年日本で野球を続けることになり、2年目は打率.329・20本塁打・69打点と主軸として結果を残した。組織学を学びに広島大学にも並行して通い、学問との両立も怠っていなかった。 2年間をカープで過ごした後、帰国して1977年からシカゴの医大に入学。日系人の学部長からプロ野球復帰を提案され、もう1年日本でプレーすることになった。ただ、77年のカープは既にライトルとギャレットを獲得していたため、南海ホークスに入団することになった。 |
リッチー・シェーンブラム (登録名:シェーン)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1975~76 大物 |
名前が長すぎるので「シェーン」で登録された外野手。息子はプロゴルファー。メジャー時代はロイヤルズでレギュラーを獲得し、キャリアハイの1972年には打率.300とオールスター出場の実績を残した。自身がユダヤ系であることに誇りを持っており、MLBの公式戦で黒い腕章をつけてプレーしたことがある。ミュンヘンオリンピックのテロで死亡したイスラエル人アスリートを悼んで行ったものだった。 日本行きのきっかけはルーツ新監督から直接勧誘されたことだった。カープではホプキンスのインパクトがデカかったが、シェーンの打撃技術もカープの初優勝に大きく貢献した。1970年代は希少だったスイッチヒッターであり、プロ野球史上初めて1試合両打席本塁打を記録した。また古葉後任監督はシェーンに影響を受け、大胆にも高橋慶彦や山崎隆造、正田耕三をスイッチヒッターに転向させている。 |
ジム・ヒックス
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1973~74 |
7年メジャーに上がった年があるがフルシーズン帯同は1シーズンのみ。レギュラー奪取はならなかった外野手。カープ入団時には大きな期待を受け、すぐに4番を任されホームランは打っていた。ただ、インハイの速球攻めに対応できず打率が上がらず、2年契約満了により退団した。
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ミッキー・マクガイア
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1973~74 |
一応メジャーリーグ経験者だが実績は少なく、ヒックスに比べるとあまり期待されていなかった。ショートがメインポジションだったがカープでは三村敏之がいたためセカンドのレギュラーとして出場。1年目はチーム打率.223の貧打のなかでチームトップの.276を記録したが、2年目に打撃成績を落として退団となった。
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ソイロ・ベルサイエス
内野手 キューバ/在籍:1972 超大物 問題児 |
キューバ出身の名遊撃手。右投右打。メジャーリーグでMVP獲得の実績があり、カープ助っ人第1号(日系人除く)として期待されたが、メジャー時代に負った背中のケガが治っておらず出場は48試合、打率.189と振るわなかった。 非常に滑らかな守備と俊足巧打が特徴で、主に1960年代の大リーグで活躍。1965年にはミネソタ・ツインズの初優勝に大きく貢献し、アメリカンリーグのMVPに輝いた。1972年に来日してサードで出場したが、ケガの影響で満足な成績を残せなかった。 引退後は不遇そのもの。キューバが恋しく英語がずっと苦手だったことや現役時代の背中のケガが重傷で就労が難しかったことから、金銭的に苦境に陥り、MVPのトロフィーをはじめ現役時代の数々の品を手放さざるを得なかった。1995年に55歳で死去。2006年にミネソタ・ツインズの殿堂メンバーに選出された。 Embed from Getty Imagesダブルプレーを成立させるベルサイエス。ミネソタ・ツインズの正遊撃手を務め、1965年にはア・リーグMVPに輝いた |
トニー・ゴンザレス
外野手 キューバ/在籍:1972 大物 |
MLB通算で1559試合出場・103本塁打・rWAR 27.0を積み上げた元大物メジャーリーガー。平均の倍近くの確率でデッドボールを受ける選手だったため、1964年にメジャーで初めて”成形済みの”耳当ての付いたヘルメットを着用した。 カープには1972年7月に来日。ただこの時すでに36歳。ベルサイエスと同じく活躍できず、年齢には抗えなかった。 Embed from Getty Images晩年にはアトランタ・ブレーブスに在籍。ゴンザレス(43)がホームランを放ったハンク・アーロンを迎え入れる |