中日ドラゴンズ 歴代助っ人外国人②(1999年以前)


MLB名鑑.com NPB助っ人外国人一覧

Chunichi Dragons
中日ドラゴンズ
セントラル・リーグ

外国人名鑑1999年以前
【1990年代までに在籍した外国人選手】
【1980年代までに在籍した外国人選手】
【1970年代までに在籍した外国人選手】
【1969年以前に在籍した外国人選手】
【名古屋軍(1936~43年)時代に在籍した外国人選手】
◇1990年代までに在籍した外国人選手
宣銅烈(ソン・ドンヨル)
投手 大韓民国/在籍:1996~99
大物 大活躍
 KBOで圧倒的な実績を残した韓国球界最高のプレーヤー。韓国の至宝と呼ばれ、150km/h台のファストボールと縦横2種類の高速スライダーは威力と制球力を兼ね備えるハイレベルなものだった。
 更なる高みを目指して日本球界に挑戦した宣は、1年目は気負いすぎな面が災いして2軍落ちを経験する不本意なシーズンとなったが、2年目からはクローザーとしてドラゴンズに大きく貢献した。
 4年目の1999年に現役を引退してからは指導者の道に進み、複数のKBO球団の監督のほか国際大会の投手コーチを歴任している。

李尚勲(イ・サンフン) (登録名:サムソン・リー)
投手 大韓民国/在籍:1998~99
 金髪ロン毛をトレードマークにしていた自信家の韓国人左腕。ファストボールの威力に定評があり、気迫を前面に出すピッチングが持ち味だった。
 LGツインズで先発、抑え両方で活躍したサムソンはメジャー移籍をぶち上げたが揉めてしまい、いったん日本で結果を残してから再挑戦することに。宣銅烈が在籍していたドラゴンズに合流し、来日2年目にリリーフに固定されるとセットアッパーとして活躍。その流れでシーズンオフにメジャー球団との契約に成功した。
 ”サムソン”は旧約聖書に出てくる長髪の人が由来で、韓国のメディアからそう呼ばれていた。

ネルソン・リリアーノ
内野手 ドミニカ共和国/在籍:1999
 ドラゴンズファンでも覚えている人はほとんどいない元メジャーリーガー。シーズン途中に来日し1試合だけ出場した。
 MLBではセカンドを中心に内野全ポジションを守れる貴重なスイッチヒッターとして10年以上メジャーに在籍、通算823試合に出場した。ドラゴンズと契約したのは、35歳を迎えどこからもメジャー契約を得られなかったのがきっかけだった。
 当時ベンチには守備に定評がある久慈照嘉と渡辺博幸が控えており、リリアーノの出場機会はたった1試合。この年限りで現役を退き、何のために獲得したのか謎のベンチワークであった。

ケビン・ジャービス
投手 アメリカ合衆国/在籍:1998
 比較的安定感のある投球で試合を壊さない先発右腕。1998年にドラゴンズ入り。開幕直後に何試合か登板したもののシーズン途中にサムソン・リーが加入。宣銅烈とサムソンで外国人投手枠が埋まり、2軍に塩漬けにされてしまった。
 帰国後は即メジャーに復帰。2001年にはサンディエゴ・パドレスの先発ローテを1年間守り、リーグワーストの被本塁打を浴びながらも12勝11敗・193投球回をマーク。通算でメジャー10球団に所属。意外と長く生き残った。

アロンゾ・パウエル
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1992~97 (阪神98)
期待以上 優良助っ人
 5年連続打率3割超え、3年連続首位打者の当たり外国人。アメリカではシングルAより上になかなか上がれず、マイナー球団を転々とする身だった。
 得点圏に弱い・ヒザに爆弾といった弱点があったものの、優れたヒッティング能力を存分に発揮。打撃力と人間性を兼ね備える優良助っ人というドラゴンズの伝統芸能(?)を継いだ。

ジミー・ウィリアムズ
投手 アメリカ合衆国/在籍:1997
 トリプルAで8年プレーするもメジャーに上がれなかった先発兼リリーフ投手。前年に入団した宣銅烈と競わせるために獲得した。
 身長2m・体重100kgのスペックを持っていたが開幕を二軍で迎えると、0勝7敗と一軍に上がれる気配がないままシーズンを終えた。

郭源治
投手 台湾/在籍:1981~96
大活躍 期待以上 日本に帰化
 ドラゴンズを語るうえでは欠かせない台湾人投手。原住民族のアミ族出身で、早くから目を付けていたドラゴンズは兵役終了を待たずに郭を入団させた。
 キャリア前半は先発で投げていたが、1987年に落合博満とのトレードで牛島和彦が去ると空席となったクローザーに転向。獅子奮迅の活躍を見せた翌年、当時日本記録の44セーブポイントを挙げてセ・リーグMVPを受賞した。
 その後はチーム事情に合わせて先発とクローザー両方をこなした。1989年には熟慮を重ねて日本に帰化。これは自身が外国人枠から外れればチーム強化に繋がると考えたためだと語っている。

ダーネル・コールズ
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1996 (阪神97)
 ナゴヤ球場最終年にドラゴンズに加入したメジャーリーガー。来日1年目にして29本塁打・打率.301の好成績を残したが、柵越えギリギリのホームランが多く、サードの守備では足を引っ張った。広いナゴヤドームに適応できるか攻守両面で疑問符を付けられ、予想外にドラゴンズを解雇された。
 翌年は阪神タイガースでプレーするも63試合出場にとどまり解雇。”神のお告げ”で空席になっていた助っ人スラッガーの役目を果たせなかった。
 ちなみに書籍”マネーボール”の冒頭にダーネル・コールズの名前が出てくる。ドラフト上位候補の高校生を集めて短距離走をする場面があり、ビリー・ビーンが足の速そうな黒人選手たちを差し置いてぶっちぎりで制する。このとき一緒に走った黒人選手の1人がコールズだった。

リッチ・モンテレオーネ (登録名:モンテ)
投手 アメリカ合衆国/在籍:1995
 メジャーではリリーフ専任で投げていたのにドラゴンズでは先発で起用された軟投派投手。防御率6点台に終始し、1年持たず夏場に解雇された。

メル・ホール
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1995 (ロッテ93~94)
大物 問題児
 NPBに留まらず歴代のメジャーリーガー全体を見渡してもワーストレベルの問題児。メジャー通算13年で134本塁打の実績を引っ提げ来日。ロッテと中日に在籍して球史に残るトラブルメーカーぶりを発揮した。ドラゴンズでは首位打者のアロンゾ・パウエルに対して高圧的な態度を取ったり、チームの士気を下げ高木監督をシーズン途中で休養に追い込んだ。
 メジャー時代は若き頃のバーニー・ウィリアムズを泣かせていたなど、日本以上にトラブルを起こしてきた。引退後は性犯罪を犯して牢屋に入っている。

ドウェイン・ヘンリー
投手 アメリカ合衆国/在籍:1994
 球は速いがコントロールが悪い、典型的な原石タイプのリリーフ右腕。ドラフト全体2巡目でプロ入りしたようにMLBでも期待されていた。リリーフ専任で数年メジャーで投げるも制球難を克服できずメジャーのイスを追われた。
 ドラゴンズはクローザー候補のつもりで獲得し、日本の野球に慣れてきてからセーブシチュエーションで投げさせようとしていた。が、勝ちパターンで使うと委縮するタイプであることが判明したり、ある試合で1イニングに4四球を出したり次第に失望されるようになっていった。
 ドラゴンズを1年で退団し、その後はメジャーに返り咲いたり台湾でクローザーになったりしていた。

ディオン・ジェームズ
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1994
 同時期に来日したヘンリーともども1年で解雇された左打ちの外野手。ヘンリーと同じ1980年のドラフトでプロ入り、こちらは1巡目指名の有望株だった。
 ほぼレギュラーで出場したドラゴンズでの成績は打率.263・8本塁打。長打力不足を理由に解雇されたが、ジェームズの打撃スタイルはアメリカ時代から広角に打球を散らすラインドライブヒッター。明らかにフロントの人選ミスであり、当時は異国選手のスカウティングがいかにお粗末だったかが分かる。

ブルック・ジャコビーJr.
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1993
大物
 メジャーで10年以上プレーした実績充分の元メジャーリーガー。キャリアハイは1987年、打率.300・32本塁打・OPS.928をマークしている。
 ドラゴンズでは極度の打撃不振とケガで離脱、5月に退団とあっという間にいなくなった。

マット・ステアーズ
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1993
 母国のMLB球団モントリオール・エクスポズでプレーしていたカナダ人外野手。メジャーデビューしてからもトリプルA暮らしが多かったところをジャコビーの代役として連れて来られた。
 日本では打率.250・6本塁打に終わったが、メジャーに戻ると打撃開眼。いわゆるジャーニーマンとなり、当時最多のメジャー12球団を渡り歩き、最終的に43歳までプレーする息の長い選手となった。守れなくなってから貴重な代打として使われ、MLB歴代トップの代打本塁打数23本の記録を作っている。

スコット・アンダーソン
投手 アメリカ合衆国/在籍:1991~92
 トリプルAでローテを張っていた先発右腕。195cmの長身から投げ下ろすファストボールが武器で、時折サイドスローで投げることもあった。
 ドラゴンズでも2年間しっかり先発ローテで投げていたが、2年目に14敗(9勝)を喫して解雇された。

マーク・ライアル
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1991~92
 バンスローが契約途中でいなくなったため急遽獲得したクリーンナップ候補。入団1年目は勝負強い打撃でチーム内では落合博満に次ぐ打撃成績を残した。翌年はシーズン序盤の故障離脱から復帰することなく解雇。代役のアロンゾ・パウエルが予想以上に活躍したおかげで、ライアルの名は完全に忘れ去られた。
 そこから約20年が経ち、息子のラスティ・ライアルも日本球界にプレーの場を求め、巨人で1年プレーした。

スコット・サービス (登録名:デビッド)
投手 アメリカ合衆国/在籍:1991
 スコット・サービスという名前だが、ドラゴンズでは同期入団のスコット・アンダーソンがいたことや、得点をサービスみたいな見出しをスポーツ紙に書かれることを恐れ、ミドルネームのデビッドを登録名にした。
 日本では1試合登板に終わったが、帰国後リリーフとしてメジャー定着を果たしている。

陳義信 (登録名:義信)
投手 台湾/在籍:1989~90
 台湾出身。本名は陳義信だがヤジ対策のため登録名を義信(ヨシノブ)にされた。

バンス・ロー (登録名:バンスロー)
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1990
大物
 MLBのオールスターに出場経験のある元大物メジャーリーガー。日本でもいきなり打率.313・29本塁打と期待に違わぬ成績を残したが、文化の違いに苦しみこの年限りで退団した。
 なお本名は”バンス・ロー”。近鉄バファローズでプレーしたテリーリー以来2人目のフルネームを登録名にした外国人選手である。のちにタイゲイニー、マットホワイト、サイスニードが続いている。

▼ホワイトソックス時代にブレイクしたバンス・ロー。メガネをかけていた
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ベニー・ディステファーノ
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1990
 成績は期待ハズレだったが乱闘要員として記憶に残った元メジャーリーガー。武闘派で鳴らした第1次星野軍団の中でも特に優れた戦闘能力を持っていた。
 守備位置は外野手がメインだったがファーストも守れ、左投げながらメジャーの公式戦でキャッチャーとして出場したことがある。

◇1980年代までに在籍した外国人選手
ジョージ・ヒンショウ (登録名:ジョージ)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1989
 「貧小」などと陰口を叩かれるのを防ぐためジョージと登録された外野手。来日前までにモッカ、ゲーリーと優良外国人が続いたことで過剰な期待を強いられ、そこそこ打ったのに1年で解雇された。

ゲーリー・レーシッチ (登録名:ゲーリー)
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1986~88
期待以上
 ドラゴンズ屈指の優良外国人ケン・モッカの後釜に獲得した、こちらも成績・人格両方優れた助っ人選手。
 モッカの穴埋めは無理だと思われていたが、3年間在籍して勝るとも劣らない打撃成績を残した。
 ちなみに、近鉄でホームラン王になったラルフ・ブライアントが中日を出た途端に大活躍した事実は語り草となっているが、当時は2人しか1軍の外国人枠が無く、このゲーリーと郭源治を外すのは不可能だったからである。

ラルフ・ブライアント
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1988 (近鉄88~95)
 ドラゴンズを退団後、近鉄バファローズの主砲になったスラッガー。その活躍ぶりは後年に中日の失態として語り継がれるようになったが、当時は外国人枠が埋まっており仕方がなかった。

ボビー・カスティーヨ
投手 アメリカ合衆国/在籍:1987
問題児
 スクリューボールの使い手で鳴らした元本格派先発右腕。MLBでは先発で250イニングを投げ13勝したシーズンがある。
 当時の外国人枠は最大3人かつ1軍登録2人で、カスティーヨは郭源治、ゲーリーの保険だった。ファームで活躍するも1軍での出場機会は2試合しかなく、2試合目の登板後にはスパイクに火を付けるボヤ騒ぎを起こし、悪い方の記憶に残る助っ人外国人となってしまった。

ケン・モッカ
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1982~85
大活躍 優良助っ人
 ドラゴンズに4年間在籍して打率.304・82本塁打をマークしたドラゴンズ史上指折りの優良外国人。長打も打てる広角打法で主軸を担い、プレー以外では人格者として選手とフロントどちらからも信頼を置かれる選手だった。退団時は外国人選手には異例の引退試合と胴上げが行われた。

チャーリー・スパイクス (登録名:チャーリー)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1981
 広岡達朗氏が認めた期待の長距離砲だったが、日本の配球に翻弄されて2軍でも苦戦した。
 ルイジアナ州出身の彼の英語には独特の南部訛りがあり、通訳やコーチのジム・マーシャルでも聞き取れないことがあったらしい。

レイ・コージー (登録名:コージ)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1981
 メジャーでの実績はほぼないが、マーシャルの推薦で獲得が決まった外野手。ドナルド・レイ・コージーという名前だが、”コージ”と登録されたせいでカープの山本浩二と比較されてしまう。
 実績通り(?)目立った活躍はできず、本人は契約延長を希望したものの、そもそも入団した経緯に疑惑(マーシャルが自身のマネジメントをさせる目的で獲得を進言した疑惑)が浮上して契約更新は見送られた。

ウェイン・ギャレット
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1979~80
大物
 広島カープで活躍したエイドリアン・ギャレットの弟。兄よりメジャーでの実績があったため、入団時には大きな期待をかけられた。
 一本足打法に近い変則的な打撃フォームが特徴的で、20本塁打を放ったが来日前の期待値が高すぎたのは不運だった。また記録よりも、柵越えを放ったのに一塁ランナーを追い越してアウトになる珍プレーで名を残した。

ボビー・ジョーンズ
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1979~80
 大洋ホエールズに移籍したマーチンの穴埋めのため、ギャレットとともに来日した外野手。打率は2割8分台もキープしていたが期待されたパワーを持ち合わせておらず(ロクに調べずに契約したチームが悪い)、2年で退団となった。
 引退後は帰国して名コーチとして長く活躍。複数のメジャー球団を渡り歩き、2016年に現場を退く際には球団からサプライズのセレモニーをしてもらった。

◇1970年代までに在籍した外国人選手
フレッド・クハウルア (登録名:フレッド)
投手 アメリカ合衆国/在籍:1978
 元大関の高見山の従兄弟として話題になったハワイ出身投手。

ジーン・マーチン
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1974~78 (大洋79)
大活躍 期待以上
 一番最初に作られた燃えよ!ドラゴンズの歌詞に出てくる”4番マーチンホームラン”の人。メジャー経験はほぼなかったがドラゴンズ在籍5年の間に161本塁打を放った。
 打者として充実したキャリアだったが、途中、デービスから執拗なイジメを受けた辛い時期を過ごした。

ウィリー・デービス
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1977(クラウン78)
大物 問題児
 プロ野球の歴代助っ人問題児ランキングがあればトップ3に入るであろう元大物メジャーリーガー。彼の奇行エピソードは枚挙にいとまがない。
 10代の頃から抜群の運動神経を誇り、短距離走でオリンピックを目指していたところをドジャースのスカウトに見出された。その後メジャーに上がってからはオールスター2度、ゴールドグラブ賞3度の素晴らしい実績を残すが、公私両面で数え切れないほどトラブルを起こし、終いには契約問題で揉めてメジャー球団から締め出された。
 ドラゴンズに来てからは72試合で25本塁打と格の違いを見せていたが、公式戦の守備中に手首を骨折。彼が離脱した途端にチームが息を吹き返したためそのまま解雇となった。来日時のトラブルだと・宿舎の風呂の栓を無断で抜く ・早朝から南無妙法蓮華経を大声で唱える(※メジャー時代に創価学会員になっている) ・メジャーの実績に乏しいマーチンを苛める、あたりが有名。引退後も両親を恐喝して逮捕されるなど内面が変わることはなかった。

▼モントリオール・エクスポズ時代のデービス
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ロン・ウッズ (登録名:ローン)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1975~76
 ロン・ウッズという名前だがなぜか登録名がローンになったアフリカ系アメリカ人。いわゆる”マネーボール”以前は過小評価されがちの、選球眼に長けたリードオフタイプの選手だった。俊足を活かした外野守備と強肩でダイヤモンドグラブ賞を獲得するも、2年目に手首を痛めてオフを待たずに退団した。

ジミー・ウィリアムズ (登録名:ウィリアム)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1973~74
 メジャー経験は無かったが、ウォーリー与那嶺と近藤貞雄が直接視察して獲ってきたスイッチヒッター。1973年に同じアフリカ系アメリカ人のテーラーと同期入団し、同じくホームランバッターでないのに4番を任され不振に陥った。テーラーと違って2年目も契約してもらえたが利き手側の肩を脱臼、これが致命傷となりクビになった。

ボビー・テイラー (登録名:テーラー)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1973 (阪神74)
 ホームランバッターじゃないのに大きいのを狙って調子を崩してしまったアフリカ系アメリカ人。
 トリプルAでは毎年打率3割超え・ホームラン1ケタ台を残すアベレージヒッターだった。1973年に来日するとドラゴンズでは開幕から3番打者を任され、プレースタイルに合わない長打狙いのスイングで凡退を積み上げた。1年で解雇されるとなぜか阪神に拾われ、ドラゴンズ時代よりかは大分マシな成績を残した。

ジョン・ミラー
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1970~72
問題児
 打撃センスはメジャーレベルだが札付きの問題児だった元有望株。まだ25歳、ヤンキースのトリプルAで活躍していたが、乱闘や審判への暴言を繰り返し、球団から愛想をつかされ来日した。
 日本に来ても公私両面で彼らしさがブレることはなかった。審判への執拗な抗議は相変わらずで、味方選手と関わりを持つつもりもなくチームの士気を下げた。ただ長所の打撃はこちらもアメリカ時代と同じように長打を量産。在籍した3年間は毎年チームトップのホームランを記録し、計79本塁打を放った。もう少し真面目だったら優良助っ人として名を刻んでいたはずだ。
 なお、MLBでは初打席でホームランを打っただけでなく、キャリア最後の打席もホームランで締めた、レアな記録を持っている。

バートン・シャーリー (登録名:バート)
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1971~72
 珍しい守備特化型の助っ人外国人。打撃に難があることを承知で獲得した。日本でも打率は2割を切る有様だったがショートの守備は素晴らしく、1972年から新設されたダイヤモンドグラブ賞(ゴールデングラブ賞の前身)を受賞した。ただしこの年限りでユニフォームを脱いでいる。
 バートン・シャーリーが本名だが登録名は”バート”。同じ年に来日したジョン・ミラーと違って人望があり、引退後はドラゴンズのコーチを務めた。

ジム・バビエリ (登録名:バビー)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1970
 ドジャースでメジャー定着に至らず日本に活躍の場を求めた元外野手。巨人の連覇を阻止すべく燃えていた当時のドラゴンズで、巨人との開幕戦で満塁ホームランを放ちファンを沸かせた。そこまでは良かったがその後調子を崩し打率.188に終わった。

◇1969年以前に在籍した外国人選手
スティーブン・フォックス
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1969
 助っ人というより挑戦者の立ち位置だった選手。アメリカではシングルAより上に昇格できず、チャンスを求めてドラゴンズの入団テストを受けた。
 NPBでは5本塁打・打率.222と結果を残せずクビになった。

ジェイ・ウォード (登録名:ワード)
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1966
 メジャー経験があったがAAA暮らしが長い経歴の元三塁手。スチーブンスとともに来日し、ともに1年で帰国した。

ジーン・スチーブンス (登録名:スチブンス)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1966
 晩年に日本にやってきた元外野手。当時としては高い190cmの高身長だった。助っ人外国人には珍しい人格者タイプだったそうだ。
 MLBでもレギュラーを張れる実力があったと言われているが、所属したレッドソックスの外野陣は強者揃いで、特に本職のレフトにテッド・ウィリアムズがいた。ウィリアムズが朝鮮戦争出兵時に代役を務めたため、現地では”ウィリアムズのキャディ”と呼ばれた。それでも短い期間で爪痕を残し、1953年にチームが大量得点した試合で1イニング3安打のメジャー初の記録を残した。

ポール・フォイタック (登録名:ホイタック)
投手 アメリカ合衆国/在籍:1965
大物
 中日ドラゴンズになってからは初の外国人投手。ドイツ系アメリカ人。スペルは Foytack だがホイタックと登録された。
 1950年代にデトロイト・タイガースで先発ローテーションを張っていた大物メジャーリーガーだった。日本に来たのが現役最終盤だったため結果は残せなかったが、当時監督だった近藤貞雄にピッチャーの分業制を伝授した。

ジム・マーシャル
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1963~65
大活躍 優良助っ人
 NPBで初めて現役メジャーリーガーの身分で来日した選手。マーシャル以前のメジャー経験者たちは引退していたり、ロースターから外れた状態で契約した選手に過ぎなかった。
 ドラゴンズに3年在籍して計78本、いずれの年もオールスターに選出された。性格的にも温厚で選手たちとの関係も良好だったと言われている。グラウンド内外でこれまでの助っ人外国人と一線を画す選手だったようだ。
 現役引退後はコーチとしてドラゴンズに請われ、ケン・モッカを紹介するというファインプレーを繰り出した。

ケン・アスプロモンテ (登録名:アスプロ)
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1964~65(大洋66)
問題児
 華のあるショートの守備がウリだったイタリア系アメリカ人。名前が長いので縮めた登録名になった。弟のボブ・アスプロモンテも後に来日し広島カープのコーチを務めた。
 本人は温厚な性格だったそうだが、ある試合で大暴れした印象が強すぎて問題児のような紹介のされ方をしている。騒動のあとで監督への謝罪&罰金で手打ちしたが、これはNPBで初めて罰金を払った外国人第1号と言われている。
 引退後は現役時代にコルト45sでプレーした縁でヒューストンに戻り、会社員を経て実業家として成功した。

ビリー・クラウス
内野手 アメリカ合衆国/在籍:1963
 メジャー通算821試合出場、一時期メジャー球団でレギュラーを張っていたことがある遊撃手。ドラゴンズでは本職でないサードをよく守ったが打撃で衰えを隠せず、3ホーマーに終わった。

ボブ・ニーマン
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1963
大物
 MLB通算125本、来日前年までメジャーの試合に出ていたドイツ系アメリカ人選手。1963年に来日し打率.301・OPS.845を残したが、同僚になったクラウスとは反対に守備で足を引っ張り、1年限りで退団→現役引退となった。
 メジャーでは初打席から2打席続けてホームランを打った唯一の選手として名前が残っている。

与那嶺要
外野手 米領ハワイ準州/在籍:1961~62 (巨人51~60)
日系人
 ウォーリー与那嶺の愛称で親しまれた元祖・日系人プレイヤー。ハワイで沖縄出身の父と日本人の母の間に生まれた。全盛期は巨人で活躍。晩年に在籍したドラゴンズではコーチ兼任だったこともあって実績は残せなかったが、1970年代にNPB初の外国人監督に就任。1974年には巨人の10連覇を阻止する貴重なリーグ優勝を成し遂げた。
 プライベートでは息子(ポール与那嶺氏)を日本IBMの社長を務める人物に育て上げた。

ドン・ニューカム (登録名:ニューク)
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1962
大物
 ドラゴンズの元助っ人であることより、ジャッキー・ロビンソンに次ぐ大物黒人メジャーリーガーだったことや、初代サイ・ヤング賞受賞者であることの方がよく知られている。
 ロビンソンに少し遅れて1949年にメジャーデビューしたが、この年ロビンソンのほかラリー・ドビーやロイ・キャンパネラとともに黒人選手初のオールスターに選出されている。ニューカム自身は新人王を獲得し、その後はナ・リーグMVPやサイ・ヤング賞、最多勝と輝かしい受賞歴を誇る。打撃も優れていて登板しない日は代打で出場していた。
 MLB引退後に地元で酒屋をしていたところにドラゴンズからオファーが届き、もう投げるのは無理だと断ると外野手でもと引かず、押しに負けて日本へ行くことになった。いくら実績充分の元オールスター経験者と言えどブランクはデカく、前評判を下回る成績に終わった。また、球団側は契約延長を考えていたが、ドビー同様日本を見下した態度は変わりそうになく、結局1年で退団となった。

左から2人目がニューカム
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ラリー・ドビー
外野手 アメリカ合衆国/在籍:1962
大物
 ニューカムと同じくNPBにいたことよりジャッキー・ロビンソンに次ぐ大物黒人メジャーリーガーとして有名。オールスター7度選出、ホームラン王2度、1998年にMLB殿堂入りした正真正銘のレジェンドである。
 ニューカムと同じく引退後しばらくしてから来日しているため全盛期には程遠く、10本塁打を放つも平凡な成績に終わり1年で退団している。

▼プログレッシブ・フィールドの入り口の前にはドビーを称える銅像が立っている。ジャッキー・ロビンソンに次いで2人目、ア・リーグでは初のアフリカ系アメリカ人であるドビーはクリーブランド・ガーディアンズの最も偉大なOBの1人である。
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半田春夫
内野手 米領ハワイ準州/在籍:1962 (南海58~61)
日系人
 ハワイ出身の日系二世選手。マイナーで3年間プレーしてから1958年に南海ホークスが獲得、その後現役最終年をドラゴンズで過ごした。
 パワーは無いが小技が得意な2番打者タイプ、内野守備も上手くメイクアップに優れていたと言われている。
 引退後はホークスとドラゴンズのコーチを歴任し、故郷に戻ってからも野球を教え続けた。

◇名古屋軍(1936~43年)時代に在籍した外国人選手
本田親喜
外野手 米領ハワイ準州/在籍:1940~42
日系人
 ハワイ準州生まれの外野手。大学は慶応義塾に入学し、六大学リーグで活躍。1940年に名古屋軍に入団すると選手兼任監督を務めた。

ハーバート・ノース
投手 アメリカ合衆国/在籍:1936
 日本プロ野球の一番最初の公式戦で勝利投手になったハワイ出身選手。制球難と日本の生活が合わなかったため、春季シーズン終了後に帰国した。

アンドリュー・マクギャラード (登録名:バッキー・ハリス)
捕手 アメリカ合衆国/在籍:1936(イーグルス37~38)
 ノース、高橋吉雄とともに名古屋軍創設メンバーの外国人選手。バッキー・ハリスは本名ではなく、MLBの殿堂入りしているレジェンドにあやかって付けられた登録名だった。
 非日系人選手だったがノースと違って日本に溶け込んだ。日米関係の悪化で帰国せざるをえなくなると大変悲しんだと言われている。

高橋吉雄
内野手 米領ハワイ準州/在籍:1936(イーグルス37,40~41,43)
日系人
 ハワイ出身。愛称は”サム高橋”。1936年に立ち上がった名古屋軍の初期メンバーの1人。翌年以降は第二次世界大戦の前まで、今は無き後楽園イーグルスでプレーした。

松浦一義
投手 アメリカ合衆国/在籍:1936
日系人
 日本人の両親の間に生まれた日系1世の投手。アメリカ国籍。生まれはシアトル郊外だが幼少期は両親の故郷である熊本で育ち、10歳から再びアメリカに渡った。
 高校在学時に所属したセミプロチームに堀尾文人がおり、そこからバッキー・ハリスや高橋吉雄と知り合いになったことで名古屋軍に入団した。荒れ球の速球派だったと言われている。